養老元年(717)に現在の地より2kmほど後方山手の四坊高坂(しぼうたかさか)の黄金清水(おうごんしょうず)で創建。
寿永2年(1183)兵火に罹つて今の地にある田鹿(たじか)八幡宮に遷座し、その相殿となつた。 全国で唯一、ショウガ、わさびなどの香辛料の神様をお祭りし、ショウガの古名「はじかみ」を名乗る神社 「しょうが神社の生姜湯」を社務所でも販売している。 |
由緒 波自加彌神社の由緒 金沢市二日市町・花園八幡町入会地に鎮座し、波自加彌神(はじかみのかみ)、一国一社護国正八幡神を主神とし、相殿に神明、春日、諏訪、薬師の神々を配祀する。 旧社格は郷社で、延喜式内の古社である。 創建は 718(養老2年)で、始め四坊高坂の黄金清水(こがねしょうず)に鎮座していたが、寿永年間の源平合戦の砌、兵火のため社殿亡失し、現在地の田鹿(たぢか)八幡宮に遷座され、復合の神社となったが、正四位上の神階をもつ波自加彌神が八幡神より上位と考えて、社名が今のものに変更された。 田鹿八幡宮にとっては、庇を貸して母屋を取られたことになる。 波自加彌神は、調味医薬・五穀豊穣の神として全国に類例のない食産神(しょくさんしん)で、歯でかんで辛(から)いもの即ち、生姜(しょうが)・山椒(さんしょう)・山葵(わさび)などの古語で『薑(はじかみ)』を語源とする。 境内には、神功皇后の三韓征伐の折、朝鮮半島より医薬としての生姜を我が国に初めて伝えた、朝臣武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を祀る摂社ェ屏堂(せっしゃじんべいどう)が鎮座し、生姜の古名を名乗る本社との関係が伺える。 古くはこの地方一帯が生姜の栽培地であったので、守護神として波自加彌神を祀ったことが起源とされるが、田近郷(たぢかごう)の総社として、その地名が田近、田鹿、波自加彌と転語したとの説もある。 社前を流れる河原市用水は、1686(貞享3年)に完成したが、建設した中橋久左衛門は、本社の神託によって現れた白狐の足跡をヒントに用水路とした。 以来用水の守護神としても仰がれてきた。 平成13年(2001年)、21世紀に向けて一千三百年の式年大祭を迎える。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
波自加弥神社 河原市用水 森下川から取水する河原市用水は、金沢市森本の薬師谷地区や花園地区の山麓を流れる潅漑用水として江戸時代以来の歴史を伝えている。 貞享2年(1685)に取り入れ口を岩出から河原市へ替えた記録があり、名前の由来となっている。また、1711年頃に河北郡笠野組十村役の中橋久左衛門が開削したとも伝えている。河原市で森下川から取水し、花園方面へ流れ、加賀爪を経て宇ノ気まで水を供給したと伝えるが、現在は不動寺町で取水し、加賀爪を経て津幡川に合流する。延長は約10kmである。 波自加弥神社 波自加弥神社は、二日市町と花薗八幡町の入会地に鎮座する日本で唯一生姜の神様を祀る神社で、1300年の歴史を誇る市内屈指の古社。 「ハジカミ」とは、ショウガ・ワサビ・サンショウなど歯で噛んで辛いものの古語で、「薑・椒(はじかみ)」を語源としている。 毎年6月15日に「はじかみ大祭」(通称・しょうが祭り)が行われ、県内外から生姜の生産者、生姜を扱う料理屋等多数が参拝する。 金沢市指定文化財である「麦喰獅子」や「木造随身像」を所蔵する。 〜用水の守り神・白狐の伝説〜 今から三百年以上前、森下川から津幡川にかけての地域は、ちょっとした日照りでも水が不足するといった状態で、水争いが絶えなかった。 そこで、津幡・浅田村の口廻り十村役・中橋久左衛門の力を借りて用水開削に乗り出した。しかし、いざ取り組もうとした時、水路の線引きに悩むことになった。思い悩んで、波自加弥神社に祈願したところ、ある雪の朝、白狐の足跡が神社から山麓を迂回してとなりの村へと残されていた。 久左衛門は、「その跡に従って水路を掘り進めよ」というお告げだと解釈し、時の改作奉行の許しを得て、30年の歳月を費やし、苦心の末、完成させた。それが河原市用水であるという。 なお、神社前に架かる橋を「瑞狐橋」という。これは、「豊かな恵みのキツネの橋」という意味である。 河原市用水土地改良区 金沢市 社頭掲示板 |
波自加弥神社 波自加弥(はじかみ)とは「薑」、「椒」とも書き、生姜や山椒、山葵などのように歯で噛んで辛いもののことを指します。 生姜は香辛料、調味料として広く用いられるほか、解毒や健胃、鎮嘔などの薬効があるとされるため、当神社も調味料と医薬の神とされ、遠く江戸時代には加越能の料理屋や医師、薬屋などが多く参詣したといいます。 若葉の繁る毎年6月15日には、恒例のはじかみ大祭(通称・しょうが祭り)が行われ、多くの参拝者に生姜湯が振舞われます。 社頭掲示板 |
波自加弥神社 延喜式内波自加弥神社 旧郷社 由緒 石川県金沢市二日市町々186番地・花園八幡町60番地入会地に鎮座の波自加弥神社は波自加弥神・一国一社護国正八幡を主神とし相殿に神明・春日・諏訪・薬師の神を配祀する。人皇44代元正天皇の御宇養老2年勧請と伝え、延喜の制に国幣小社に列せられ、国内神名帳には正四位上波自上大明神と見え加賀国十八ヶ村の惣社たりし旧社なり。加賀国式内等旧社記に曰く波自加弥神社式内一座 田近郷四坊高坂地内小金清水に鎮座の処、中古兵火罹、社殿焼亡の後田鹿八幡宮に遷座し相殿と為すとあり、八幡宮は廂を貸して母屋を奪われた形である、社下に在りて八幡村と云う。又毎月2日には弓□の神事有りて参詣の諸人群集しければ遠近の商人来たりて市をなす。二日市の名是より起れり。波自加弥神は食産神として名高く、歯で?で辛いもの即ち山椒生姜等古語で薑を語源とする日本唯一の調味医薬の神である。陽成天皇元?元年9月班幣にあずかり、醍醐天皇延長3年12月延喜式に撰上あり勅使下向し祈年祭を修し奉幣宿願せられ綿二両糸二両を賜う。文治2年天下安穏御祈祷を仰せ付られ神階を正四位上に班せらる永享7年5月後花園天皇勅使下向、社領宮田五十五石を寄せられ親翰を賜う。寿永2年5月源義仲北国合戦の砌、其の臣大矢坊覚明に命じて正八幡宮の額を書かしめ、中指□の根を添えて献納宿願あり。其の際醒井小藤太に神勤を命じ爾来累世現今に及ぶ。大永2年豪士亀田隼人・吉藤円乗等相計り社殿改築す。天正8年佐々成政来りて社頭朝日山堡を囲む際、前田利家援軍の途社参し奉幣の事あり、同12年末森の戦いに利家公再び社参し金子並に晒布を寄進す。寛永8年利家公社寺奉行岡島市郎兵衛・葛巻蔵人を使とし社宝上覧され一山地八反三畝十歩銀五両を賜う。長享2年中橋久左エ門、本社神爪の神助に依り河原市用水(24ヶ村9018石高)の開鑿に当り、守護を祷し爾来神恩感謝の祭を執行し水道祭として今に行われている。慶応3年拝殿改築し、明治25年4月千二百年祭を執行す。明治6年村社に列し、大正14年3月19日郷社に列せられ、明治39年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和3年9月本殿竣工、同26年8月千二百五十年祭を執行す。同54年11月幣拝殿竣工し慶賀祭を行う。同59年10月社務所竣工す。 昭和60年1月吉日 波自加弥神社 宮司 田近幸嗣 撰 社頭石碑 |
波自加弥神社 波自加彌神社由来 御祭神 正四位上波自加彌神(調味・医薬・産業の神) 一国一社護国正八幡神 遙拝殿 平成14年、一千三百年祭記念事業として130年ぶりに御造営 摂社 甚兵堂=我が国に生姜を伝えた武内宿禰命と日吉神を祀る(眼病に霊験あり) 末社 忠魂殿=森本地区出身の戦没英霊419柱を祀る 榊葉社=祓戸に供するが、県内一の榊の老樹も昭和初期に枯死し、現在は2代目 八幡山稲荷社=商売繁盛・五穀豊穣の神として平成7年に建立 由緒 当社は、養老元年(717)に、ここより2キロほど後方山手の四坊高坂(しぼうたかさか)の黄金清水(こがねしょうず)で創建されたが、寿永2年(1183)の源平北国合戦のおり、兵火によって社殿のことごとくを焼失したので、現在地である二日市町と花園八幡町の入会地に以前からあった田鹿八幡宮(たじかはちまんぐう)の横に並んで社殿を建て遷座された。その後、波自加彌・八幡の両社を一社殿として造営合祀され、以来「波自加彌神社・正八幡宮」または「やわた宮」と呼ばれて、加賀国の守護神として、あるいは金沢北郊の大社として多くの信仰を集めてきた。 田鹿八幡宮がいつ頃から波自加彌神社と呼称されていたのか詳(つまび)らかではないが、江戸時代の元禄7年(1694)の『神社略縁起』によれば、波自加彌神社と記されている。これは波自加彌神を八幡神より上位と考えて社名を変更したものと推察され、八幡宮にとっては庇(ひさし)を貸して母屋を取られたことになる。 奈良時代に、加賀国で数ヶ月間降雨がなく、草木はことごとく枯れ、牛馬や家畜、人にいたっても多くが渇死したので、国造(くにのみやつこ)が雨乞いをするため当社に社参し、身を清め断食して祈願すること37日目の満願の日、近くの谷より金色の光が輝いているのを発見し、不思議に思ってその場所に赴(おもむ)くとこんこんと霊水が湧き出ていた。これで人々はようやく甦生(そせい)し、草木も繁茂(はんも)した。人々はその神恩に報いるために供え物を求めたが、めぼしいものがなく困っていたところ、たまたま旱天下にも自生する生姜(しょうが)があったので、これを献じて感謝の祭りを行った。この日が6月15日であったので、爾来全国で類例のない「はじかみ祭」(別名しょうが祭)として、連綿として続けられている。 薑祭 「波自加味大明神」「波自加美大神」とも称された当社は、歯で噛(か)んで辛いもの、すなわち、ショウガ、サンショウ、ワサビなどの祖神(おやがみ)さまである。若葉の茂る毎年6月15日、「しょうが祭」が行われる。遠く江戸時代には、この祭礼に加賀・越中・能登の料理屋の主人はすべて参拝したといわれ、また、生姜の薬効から医薬の神としての信仰も篤く、医師や薬屋も参拝したと伝えられている。 現在も、食産神「ハジカミ」に由縁のある、産地の生姜栽培加工業者、スパイスや食品加工業者、漬物組合、加賀伝統野菜生産者、青果商、菓子芝舟製造業、料理店主、調理師、薬種関係者等、県内外より多数の方々が自社製品献納の上参詣され、湯立神事によって調製された生姜湯が振舞われる。祭典後は、漬物組合による「漬物コンテスト」や、調理師団体による「料理の振る舞い」など、多彩な行事が行われている。 宝物(主なるもの) その他平安期から伝わる社宝約60数点を宝物殿に収蔵 麦喰獅子 金沢市指定文化財(鎌倉時代) ▼この獅子頭は桐材で彫製されており、彩色を有し、耳は立ち耳で差し込み式となっている。 銘文を有しないが、鎌倉時代の作と考証され、県内最古の獅子頭の一つである。 名前の起こりは、麦を喰い荒らしに夜な夜な神社下の畑に降り立ったので、逃げ出さないように金網をかけて保存したためである。 木像随神像一対 金沢市指定文化財(鎌倉期) ▼能登の春日という仏師の作と伝え、京都男山の石清水八幡宮へ奉納しようと内灘沖まで来たところ、風が止んで船がいっこうに進まないので、当時当社の社叢林が灯台の役目を果たしていた関係から、二対ある内の一対を奉納したところ、瞬く間に風が吹き、船が進んだとの言い伝えがある。鎌倉時代の作。 由緒書 |