須岐神社
すきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須岐神社 加賀国 加賀郡鎮座

   【現社名】須岐神社
   【住所】石川県金沢市東蚊爪町ホ100-甲
       北緯36度37分27秒、東経136度38分46秒
   【祭神】天児屋根命 誉田別天皇 息長帶姫命 比淘蜷_
       武甕槌命 経津主命 比淘蜷_

   【例祭】4月14日 春季例祭 7月19日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】宝亀2年(771)鎮座
       元和3年(1617)淺野川洪水社殿流亡
       正保2年(1645)前田利常より松樹350株を拝領
       明治40年赤浜八幡神社を合併

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地不詳
        元和3年(1617)淺野川洪水社殿流亡
        赤浜八幡の境内社となっていた

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「赤馬場八幡宮」「赤浜八幡」と称していた
   【社殿】本殿流造鋼板葺
       拝殿・神輿庫・社務所

   【境内社】天照神社

「須岐」は「須佐岐」洲崎の意であろう。淺野川が河北潟にそそいで海ヘの出口という要地に守護神として奉祀されたのが起源であろう。
鎮座地は淺野川の河口に近いので、しばしば洪水に遭遇して社地が転変し、赤浜八幡の境内社となっていたが、須岐神社の名は継承されてきた。
明治40年赤浜八幡神社を合併し現在は本殿内の右に須岐神社、左に八幡宮を奉祀する。


赤濱八幡社

○式内須岐神社也とす。但拠なし。○社記には、元正天皇宝亀二年の鎮座とし、亦州民祭主等、奉請字佐八幡大神、附祭於此。所以俗曰赤馬場八幡也云々。源頼朝公寄数頃田畝、充厨膳。到今居民曰正月田・二月田乃至十二月田。此皆當祭也云々。○延宝二年由來書に、加賀郡東蚊ケ爪鞍降之庄内赤馬場惣社八幡宮は、霊亀二年四月三日草創にて、其頃神主六人・神子六人有之由傳承。甚大社之処、越前三國之森田輿申仁、此社を放火し、神宝之鞍、龍宮より來る鐘を取行き、鐘は三國沖に沈たる由、其外縁起・古文書等悉焼失之由申傳。鎌倉頼朝卿より社領寄附有之由。氏子共より之寄進田五段は、正月田輿字す。一町は二月八日神前読経之布施田、一町は四月三日田と称し神事の用途、五段は五月田與字す。二町は八月十五日神事田。六段は九月田輿字す。都合四十八町の社領有之由記載すれど、文意甚不行届也。今要を摘むのみ。○名蹟誌に、中比、此辺高桑五郎と云入領せし時、祈祷所とし再興したるよし云傳ふ。○亀尾記に、當社は所謂須岐神社にして、八幡宮也。天平年中より此地に鎭座すと云。藩記も多くありしかども、社家放蕩の者ありて悉く失ふと云。

『加賀志徴』巻十二



須岐神社

須岐神社は、元正天皇の霊亀2年(716)に、浅野川河口付近で右岸側の地に創建されたと伝えられている。赤浜八幡神社は、後ほど述べるが、我国を粛慎・刀伊らが再々侵略しようとしてこの地に来襲してきたので、対抗の前進基地として八幡神社を聖武天皇の天平元年(729)に、須岐神社境内に創建され、赤浜八幡神社と唱えている。当、須岐神社は御創建由来の示すとおり、歴代朝野の尊崇念篤く、醍醐天皇の延喜5年(905)より編纂されました延喜格式の巻九・十に所載の神明帳(式内社に該当)に、加賀の国42座(神社)の一つに数えられ、所謂、延喜式内神社である。鎌倉時代には、幕府より当社の赤浜八幡神社に対して社領が寄進された。
室町時代に、一向一揆が発生の、長享2年(1488)に当社の死亡した須岐神社神主長江須賀麻呂を初代として長江姓で19代続きました。以後、歴代神主は、京都の神道管領長上の吉田神社宮司兼任の卜部氏発行の神道裁許状を申請する際に、当社神主は須岐神社・赤浜八幡神社両社神主として申請していた。豪族の高木氏(高桑)五郎が当社の赤浜八幡神社を祈願所として、更に社領を寄進された事により、以後、赤浜八幡神社を崇拝者が増加して当社の須岐神社が衰微傾向となり、当社の須岐神社神主の呼び名が、いつの間にか赤浜神主と呼ばれる。江戸時代には、金沢の町へ出開帳を行い、寄進を求める時にも、赤浜神主としての呼称で行っていた。元和3年(1608)に大洪水が発生して、境内地が浸水して一年中水が引かず、加賀藩の寺社奉行所に移転の要請をして社地を求め、20丁南の地に境内地2000坪・神主宅地200坪・墓地30坪・河原神事浜用地として10坪の社地を拝領して社殿を造営して移転遷座をした。又、社領としては、現宮司の聞き伝えている範囲では「神饌田として正月田・三月田・六月田・九月田」と当社の祭典時の費用捻出としての田畑が在ったと伝える。かつては社領も多く在ったけれども、度重なる洪水被害による社殿修復工事費の捻出に、社領も神饌田のみとなってしまった。
境内にて奉納相撲が行われた際には、境内に生い茂った孟宗竹によじ登って相撲見物が出来る位の状況であったと伝えられている。その後、神主宅地は東蚊爪町ホ100番地に移り、横の土地に遥拝所を建てて祭典を奉仕していた為に、本社・境内地の管理が行き届かなくなり衰微してきた。明治になり、新政府が神社をランク付けした際に、当時の神主長江(齋藤)廣居が須岐神社の由緒正しく、且つ、延喜式内神社である事から、須岐神社の呼称でと唱え、両社を合併して社名を須岐神社とし、鎮座地を現在地に定め、遥拝所を拝殿とし、本殿は浅野川右岸の畔で、ナカエ用水との間に建設し、両殿を繋ぎ現在の社殿様式とした。その後、後継者が絶えたので、親戚一同協議の上で現宮司本嶋家に委ねられた。

石川県神社庁



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