賀茂大明神がフナに姿を変えているとき、落下した桃の実が目に当たり痛み苦しんだため、付近の池のフナは片目が細く小さくなったという「片目のフナの伝説」が伝わる。また庄内の梅の木には実のなることがないといわれる。 |
賀茂神社 御祭神 賀茂別雷神 貴布祢神 天照大神 御由緒 当宮の鎮座年月は詳ならざれど、社伝によれば■国加賀風土記に、加賀郡下野郷加茂山神社所祭別雷神 と記される宮にして、大和朝廷時代継体天皇14年に 京都の中賀茂の宮を北陸道の総鎮守として御所村に遷座し奉り、敏達天皇2年4月、圭田57束3毛田を給うと史書に見えたるを始めとす。 その後、奈良時代孝謙天皇天平勝宝5年英田郷加茂に遷座、今この地を大同開地と云う。 大同2年霊夢あり現今の横山の神山の地に遷座され、平城天皇の勅願所となり皇室の崇敬を受けたり。 今に王橋、すなわち直視の通行せる橋ありてその時代を偲ばるる宮にして神職三家社僧十二坊と七堂伽藍を有せし神社なりといふ。 大同4年相殿に貴布祢神を勧請す 平安時代嵯峨天皇弘仁14年2月越前国江沼・加賀二郡を割きて加賀国を建国せしころは横山駅馬五匹とあり、能登・越中への駅路の神たり 醍醐天皇延喜5年延喜式の制に式内の社に列し、6100歩の境内を附け給ひ、360町歩の田地を附け置かれ、春秋の祭礼には、神事能及び競馬の儀毎年執り行はれたりと云ふ この競馬の勝馬は京都上賀茂の社に今も伝うる5月15日の競馬会に出馬せりといひ、今に金津御庄と称する騎手は上上の上と云はれ別に半畳を与えられてありといはる 室町時代正親町天皇天正12年9月13日辰の刻、越中富山城主佐々成正、末森の合戦に敗れ敗走の時、当社の森を焼き払いしにより神職・社僧も散り、源頼朝公より寄進の宝物を初めすべてを焼亡せり 僅かに神体のみを近くの神明社の洞に隠し鎮め奉れりと伝ふ その後、金津庄二十一ヶ村の氏子相議りて草結の社殿を造り遷座し奉り、祭礼を執り行いたれど、江戸時代後西院天皇万治元年現今の本殿を再建す 明治9年拝殿を改築、同14年県社に列せられ金津庄(高松町七塚町宇ノ気町)の総氏神で攝末社二十数社の本社として氏子の崇敬篤き神社なり 昭和55年11月 賀茂大宮宮司 四十九世金津彰泰撰 社頭石碑 |
賀茂神社 当社の史書に見ゆるは、敏達天皇2年圭田57束と奉り云々と見えたるを始めとし、天平勝宝5年加茂、大同元年鉢伏、同2年神託を蒙り現今の地に遷座、平城天皇の祈願所として6200歩余を寄せ給い、醍醐天皇の延喜5年360町歩の田地を賜り、十二坊三神主を附置かれたという。延喜の制、国幣の小社に列した名社。天正11年藩主前田利家公、羽柴秀吉の命を受け、山城国下加茂社に当庄十ヶ村を寄進せり。天正12年末森合戦の折に兵火に罹り、社殿始め古文書宝物その他を鳥有に帰す。万治元年本殿拝殿等を再建せりと、当時末社34社、正徳年中、藩主前田綱紀公境内地として一町二反十三歩を附置かれたり。明治5年郷社に列し、明治14年県社に列せられ、明治39年神饌幣帛料供進神社に指定さられ、昭和6年北陸鎮座1400年祭を執り行いたりという。 石川県神社庁 |