国道より少し入った山裾に鎮座している。枝垂れ桜がある。本殿裏に龍神の池がある。 【下野間神社】伴信友の『神名帳考証』は北中條にあつた旧無格社の野間神社を式内社下野間神社に比定する。明治41年に同地の村社三輪神社に合併されたが、式内社たる明証は全くない。(式内社調査報告) |
三輪神社 仁明天皇承和3年創立の延喜式内の三輪神社と伝えられる。古来、井上郷17村の総社として仰がれ、藩主前田家の崇敬篤く、三代利常夫人の天徳院が慶長18年社殿を建立、翌年能を奉納。山王社、日吉社とも称せられてきた。明治40年同字鎮座野間神社、春日神社、今倉社を合併。 石川県神社庁 |
三輪神社 三輪神社 旧村社 北中条サ2乙 主祭神 大物主神・菊理媛神・経津主命・武甕槌神・天児屋根命・比売神・稲倉魂命 由緒 仁明天皇承和3年(836)創立の延喜式内の三輪神社と伝えられる.古来,井上郷 十七村の総社として仰がれ,藩主前田家の崇敬 熱く三代利常夫人の天徳院が慶長18年社殿を 建立,翌年能を奉納.山王社,日吉社とも称せ られて来た.明治40年同字鎮座野間神社・春 日神社・今倉社を合併. (神社誌) 字北中條に在り.村社にして大物主命・大山咋 命・菊理姫命・武甕槌命・経津主命・天児屋根 命・比売大神・倉稲魂命を祭る.仁明天皇承和3年の勧請にして,式内の三輪神社なりと伝う。相殿大山咋命は,治承中(1177〜80(83))近江国阪本の権禰宜実達と云う者、当社に来りて 神主となりしが、元其産土神たりしを以て、之を摂社として奉祠せしに、後其社殿焼亡するに及び、三輪神社の相殿とせしなりと云う。明治6年6月14日中條社号を日吉神社と改め、同14年10月三輪神社と復旧せり。同40年8月19日同字野間神社・春日神社・今倉社を合併の許可を得、同41年5月17日之を合祀す。(河北郡誌 中條村) 主祭神 大物主命・菊理媛神・経津主命・武甕 槌命・天児屋根命・比売神・稲倉魂命・大山咋 命 参考 もと山王社・日吉社等ともよばれ,明治14年現社名に改称、延喜式内の三輪神社とする所伝のある旧社。明治41年に同字の無格 社野間神社・春日神社・今倉社を合併。もと栗本家が奉仕した。宮司は加藤治男氏。 (津幡町史) ○同山王社 北中条村.社人栗本・布施両氏. 貞享(1684〜87)之社記に、加賀郡北中条山王は、承久2年(1220)に勧請。井上庄十七村の産神。古は社多く有て、社領も之有。中比大破及、天徳院君聞召、山王は御産神也。殊に当村は御化粧料なる処、御知行所に山王社鎮座なれば、殊更御崇敬成被。慶長18年(1613)本社 拝殿御再興あり。則興津内記等奉行にて、遷宮の時神事能仰付られ、米三十俵御寄付御札之上とあり。 (加賀志徴) 【考察】 石川県神社誌に記載漏れの大山咋命は日吉大社(山王社・滋賀県大津市坂本)東本宮の祭神(西 おおなむちのみこと 本宮は大己貴命)。大物主命は三輪神社の祭神であるが、明治期に合併された祭神は、春日神社(経津主命・武甕 槌命・天児屋根命・比売神)今倉社(稲倉魂命)残る野間神社の祭神は菊理媛神・大山咋命となる。しかし、菊理媛命は白山神社、大山咋命は日吉神社の祭神。河北郡には旧河北郡小坂村にのづちの 「野間神社」があるが祭神は「草野比売神(野椎神の別称・野の神)」旧石川郡玉鉾村「野間神社」の祭神は「豊宇賀能売命(倉稲魂命の別称)」である。 加賀郡式内社三輪神社に比定されているもう1 社は金沢市本多町の石浦神社である。 ・二つ屋事件跡 文禄元年(1592)4月14日、 前田都利長の家臣どうしの斬殺事件跡。現場はきわ 「津幡の際」(「老拠摘録」)、「津幡と中条の間、二屋と申所」 (「漸得雑記」)、「津幡より十四 五町末の中条との間二屋に出」(菅君雑記三)に発生した。津幡川から約五〜六〇〇m南の現横浜の街道と推定される。ここの小屋で待ち伏せした二人が,津幡まわりで来た五人を襲い四人を討ち果たし、つづいて舞台は守山(高岡)に 移り、一〇〇人以上の乱闘になった。「杉瀬越と 申近道」 (「加賀藩史料」)という津幡抜きの脇道は確認できない。 (北陸道(北国街道) p61) ・神社境内には宝筐印塔・五輪塔が散在している(写真2)。 ・明治期、日吉神社を名乗らず三輪神社を名乗れば社格も上がり、式内社に比定されることは容易だったかもしれない。加賀神社を県社にした潟端と対照的。 津幡町の神社と祭神の分析―中条地区の神社 宮本眞晴 |