石浦神社
いしうらじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】三輪神社 加賀国 加賀郡鎮座

   【現社名】石浦神社
   【住所】石川県金沢市本多町3-1-30
       北緯36度33分40秒、東経136度39分35秒
   【祭神】大物主神 大山咋神
        (配祀)天照大神 菊理媛神 天児屋根命 市杵嶋姫命 (合祀)誉田別命

   【例祭】10月2日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天正8年(1580)兵火のため炎上
       慶長7年(1602)3月石浦村地内の石浦砦跡に再興
       寛永18年(1641)本多政重が祠殿を造営
       宝暦9年(1759)4月大火焼失
       文政元年(1830)再造
       嘉永元年(1848)9月暴風雨のため社殿崩壊
       明治元年4月再建
       明治5年郷社
       明治13年現在地に移転

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は現在の長町1丁目付近にあった
        慶長7年(1602)3月石浦村地内の石浦砦跡に再興
        明治13年現在地に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「石浦山王」「山王地主権現」と称していた
   【公式HP】 石浦神社
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】広坂稲荷神社
   【旧社地図】 境内図

金沢市の中心、金沢城に接して鎮座している


由緒

石浦神社と慈光院
金沢市内で最も広大な地域の氏子を持つ石浦神社は大山咋命(日吉山王大神)市姫神、白山比淘蜷_、天照皇大神、応神天皇、大巳貴命(大国主命)春日神を祀り、古くから石浦郷内七カ村の産土神として石浦山王または地主権現と称せられ、村民から深く尊信されていた。
石浦郷七カ村は石浦村、笠舞村保島村、朱免野村、木新保村、今市村、山崎村で、それらがみな氏子であったから、今の武蔵ケ辻近くから犀川の左岸に至るまでの広大な地域が含まれていた。
当時の社地は今の長町一丁目で江戸時代には加賀藩士、浅香、由比両氏ら邸地となり、社の移転後永らく雑木が生い茂っていた。 室町時代にはここに大きな神殿があり、参拝者が多かったが、天正8年(1580)佐久間玄藩盛政が一向一揆の一大拠点である金沢御坊を攻めた時、このあたりが激戦地となり、住民の家屋も神社も共に兵火にかかって烏有に帰し古記録は全部焼失した。
このため神社の由来、縁起等の資料はなくなってしまった。
誠に惜しいことである。
しかしご神体は氏子らが奉体して山中に避難していたが、戦がおさまって平和になると金沢に奉遷したが、なお神祠仏堂の再興することができず、石浦村の民家に安置していた。
その頃は神仏習合で御神体と仏像とを合せ祀っていたが仏像は本地仏と称えられ、有名な十一面観音であった。
天正10年(1582)真言僧不動坊の請求によってこの観音像を彼僧にあずけて守護させたが、その後、木新保村、小立野、卯辰山等に次々と移転した。
一方、石浦山王の氏子らは前田利家が金沢へ入城してから既に十数年たち、世が平和になったので社を再建しようと思ったが、旧社地は藩士の邸地になっていたので慶長7年(1602)3月、上石浦村の地内にあった石浦砦の旧跡に社殿を再興した。 それは今の本多町三丁目にある本多氏の下邸内であった。
この石浦砦は石浦城ともよび、戦国の頃、一向一揆の首領の一人石浦主人がここに拠ったが、米泉にいた須崎兵庫に攻められて亡ぼされた。
この地は背後は崖で、前には広い霞が池があって、要害の場所であったから、これを修理して天正の初頃、一向一揆の首領の一人山本若狭守家芸が城主となっていた。
その女が前田利家の側室となり、利孝の母となったのである。
氏子らは慶長11年春、石浦山王の社地に観音堂を造営し、その年9月、卯辰山より観音を奉遷した。
この寺を石浦山長谷寺と称した。
これから後、この寺の僧が永らく石浦の神を奉斎したのである。
寛永18年(1641)本多政重が祠殿を造営したので神殿は豪壮なものになった。
また奉仕している石浦山長谷寺は長谷山慈光院と改めた。
これは天平の昔鎮祭の折、天空に慈雲放光のめでたい光景が現出されたと伝えられる由緒によったもので、これから明治初年まで金沢市民は慈光院とよんでいたのである。
子供らはこれをなまって「ジクインサン」とよび祭の日に雨が降り続くと「ジクジク祭り」といって淋しい顔をしていたものである。 この建物は神仏一体の社として深く人々に信仰され、参拝者も非常に多かった。
宝暦9年(1759)4月金沢は大火になり、大部分が焼失するという災害にあい、この社も全焼したので、文政元年(1830)再造した。
ところが嘉永元年(1848)9月暴風雨のため、崖くずれ社殿が崩壊したので、明治元年4月再建した。
明治になってから神仏分離が実現され、社僧慈光院盛雅が復飾して長谷氏と称し、神官としてこの神社に奉仕することになった。
また慈光院の本尊である十一面観音は小立野宝幢寺へ移されたが、後寺が百姓町(現幸町)に転地して今もそこに安置してある。
また前立の観音は大乗寺坂下の長谷院に移された。
これまでの山王地主権現の称を廃して石浦神社というようになったが、金沢市民は永く親しんできた慈光院の名を呼ぶものが多い。
明治13年、今の地に移ったが、建物は昔の面影を残して拝殿は寺院の様式であり、右方の車寄も唐破風造りの優美な構造になっている。
終戦後、この社の近くにあった軍政隊の米兵が、賑やかな祭礼に驚いていたが、その後、年々この社の参拝者がふえていて、信仰の厚いことを物語っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



石浦神社

古墳(547)時代に草創され、金沢最古の宮として、 三輪神社を号し、奈良時代には神仏習合となり石浦山慈光院長谷寺と改め、 江戸時代には石浦山王、石浦大権現、明治の神仏分離令により 石浦郷の地名をとり石浦神社と改称した。
【 加賀國式内等旧社記 】
三輪神社、式内一座石浦郷石浦村鎮座称石浦山王石浦郷
七箇村惣社今属石川郡也と記される。

公式HP



石浦神社

本神社は加賀国石浦村始め七ヶ村の産土神で、旧藩時代には俗に石浦山王社或いは地主権現と呼ばれ、別当所を長谷山慈光院と号した。社記によれば聖武天皇の天平11年の創建で、延喜式名帳に記載されている加賀十三座中の三輪神社は実に当社であるといわれる。金沢城地の土地神として歴代藩主の崇敬をうけ、旧藩中家老を始め市中士民の信仰又篤かった。明治元年神仏混淆禁止の際別当を廃し、同2年旧称を除き石浦神社と改称、同5年郷社に列せられた。昭和19年県社に昇格。金沢市最古の同市指定文化財「石浦山長谷慈光院氏子七ヶ村地図」所蔵。

石川県神社庁



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