人皇第8代孝元天皇45年(三世紀末)の創建とされている。 当社を式内神田神社に比定する説があるが不詳 |
由緒 増泉春日明神略縁起 御當社増泉春日明神の来暦を尋るに村民古老傳承して日。 往昔當国石川郡五箇庄と加賀郡小坂庄との両庄は大和国三笠山春日大明神の御神領にして両庄共に世々三笠山の御厨と稱し神田神畠を耕作して年貢を三笠山の神庫に納め来れり故に五穀豊饒成就の祈請の爲め三笠山の御神靈を庄内に勧請し奉り農耕の守護神とはなしぬ。 五箇庄の村落は糸田増泉石坂中村大豆田の五ケ村にて各村は祠社を建立して御神靈を尊崇する中にも増泉は人皇六十二代村上天皇の御宇天暦元年に村中の神田千餘歩を社地と定め社殿神庫を造営して三笠山より御神靈を勧請す是庄内に御神靈を勧請し奉る濫觴なりといへり。 さて神官社人を定め朝夕の神勤恒例の祭典等甚鄭重に致し早霖火難水害風難虫害の災ひなきやうにとの守護神となしぬ。 然るに天文弘治永禄頃の兵乱に社殿悉く兵火に罹り縁起記録等の神寶共残らす燒亡して僅に燒跡の社地に草祠を営み神實を守護するのみなりしが世治り国内大平に属し慶長年中神官田中神主氏子村民の発起に依て社殿を再興して朝夕の神勤四季の例祭を復古せり。 故に神威の應護も弥増て火難水害風難虫害の憂ひもなく村地の町在無異安穏家族繁昌す是偏へに明神の應護なるべし當社草創の天暦元年より今茲元禄9年に至り實に750年の星霜を経たり故に當社明神の来暦を舊聞のまま記載して氏子町在諸人の崇敬を仰がん爲め如斯謁戴すと云爾。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
春日神社 増泉の村に鎮座します当社は、古くより地域の皆様の団結とご信仰の象徴として、自然を根幹とした日本人の心とも言える春日の森を大切にお守りしてきております。 春日神社のご祭神は、武甕槌尊 経津主尊 天児屋根命 比淘蜷_ の四柱の神様と、菅原道真公をお祀りしています。 春日の四柱の神様は、四神揃って平和を司る神様です。 この場合の平和とは、話し合いや愛情・協調を経て、時には強さを以て和を保つということです。 さらに、増泉の春日神社は菅原道真公を合祀しておりますので、学問の道を修めるにも正道と言えます。 増泉の春日神社は、人の進むべき正しい道、家族の進むべき真の道、そして社会集団の進むべき団結の道を、明るく照らしてくれる神社と言っても過言ではありません。 また、摂社としてお祀りされる出世稲荷神社は、その名の表す通り、商いの道の厄災を除け自己鍛錬を進めて自身の立身出世を願う神社です。 社頭でお賽銭を投げてのお参りには時間を区切っておりませんので、お近くにお越しの際には是非ご参拝下さい。 □ 歴史とその変遷 □ 人皇第8代孝元天皇45年(三世紀末)の創建とされている。 その後、古代後期(平安時代)の十世紀頃から中央の社寺・権門の寄進系荘園が全国各地に設けられるようになると、当社鎮座の井出郷内の土地も大和国三笠山春日大社の荘園(御厨)となった。 ここに当社は、村上天皇の天暦元年(947年)に大和国三笠山の春日大社の神霊を勧請し、あらたに社殿・神庫を造営して春日社と称す様になったと伝えられる。 寛永年間には加賀藩主前田利常公が田中正全を当春日社の神職に任命し、以来田中家が代々その責を果たすべく神職を世襲することとなった。この田中家は、神仏習合の時代にも純粋な神職としての社家の家柄であり、近世には京都の吉田神道家より当神職の代が変わるごとに神職裁可状を授与され神務にあたってきた歴史も有する。 藩政時代には、加賀藩歴代藩主の祈祷所として厚く崇敬されるとともに、五箇所総鎮守として近郷近在の多くの人々から広くその敬神の生活を支える事となった。 近代に至っては、旧社殿の老朽化が著しく目立つようになった為、昭和62年10月、4ヵ年の歳月と多くの氏子・崇敬者・関係者の皆様のご尽力の賜物として神社殿造成事業を完遂せしめその竣工を見た。 公式HP |