笠間神社
かさまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】笠間神社 加賀国 石川郡鎮座

   【現社名】笠間神社
   【住所】石川県白山市笠間町1
       北緯36度30分19秒、東経136度31分34秒
   【祭神】(主神)大宮賣神 (配祀)住吉三前大神 八幡大神(合祀)少彦名大神
   【例祭】10月23日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇の御代より鎮座
       和銅3年(710)4月奉幣
       寿永2年(1183)木曽義仲手取川洪水で参拝所願
       明治5年11月郷社
       明治30年9月16日県社
       同39年12月29九日神饌幣帛供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「笠間八幡」「宇佐八幡」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・幣殿・社務所

   【境内社】

八幡大神を祭るのは、中世に笠間地方が山城の岩清水八幡宮の善法寺坊領だつた関係から祀られ、やがて笠間神社も八幡宮と称せられるようになつたと思われる。


由緒

笠間神社の由緒
本社は延喜式内の笠間神社にして、遠く崇神天皇の御代より鎮座ましまし、大宮比盗_を祀る、和銅3年すでに奉幣のことあり、即ち笠間神社圭田四十七束二字田所祭住吉大神也、和銅3年庚戍4月奉圭田加礼有神家巫戸等とあり、古は社家社僧多数住し、舘屋敷、三郎屋敷、源右衛門屋敷、坊子薮、大門大御堂経塚と称する遺名の存する如く、社地広大にして、氏子又数百戸あり、正三位笠間明神と称え、笠間郷(笠間村、北島村、宮保村、黒瀬村、石立村、松本村、小川村)一村の総社にして、大社として信仰者多く、近郷稀にみる名社なり。
一時宮保八幡と称せしは、其の社地現宮保八幡神社と接続せし故なり、即ち、中古笠間神社神主東保、西保の二保に分れ後民家も東西に分離してより、現笠間村は旧西の保、現宮保村は旧東の保にして、宮保に八幡田と云う字あり、是に依りて宮保の保の云うべきを略して宮保村と云う。
その八幡と称するは義仲の故事により当社を源氏の氏神なりと称せるより起りしものならん。
斯くて現宮保八幡神社は明治7年8月笠間神社へ附属し、同年8月笠間神社の摂社となる。
其昔寿永2年木曽義仲加賀合戦に、平軍を追撃し此地に来る。
時恰かも手取川洪水のため、渡るを得ず、当社に減水と戦勝を祈願せらるるに、その願空しからず、俄に減水して渡る事を得たり。 依つて兜及び喜悦書を奉ると云う。
当時義仲附近住民より寄せたる煎粉に依り空腹を満たせりと伝え、又其時用いし水の井戸を義仲弓堀の井と称へ社頭に伝う。
依って氏子一同今に至るまで11月15日をきし煎粉祭、別に義仲祭とも称し、神前に煎粉を供え奉りて、氏子も共に食して御神徳を称え奉る特殊の祭典執行せらる。
明治5年の土申11月加賀国第一区郷社に列せられ、明治30年9月16日県社に加列、同39年12月29九日神饌幣帛供進神社に指定せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



笠間神社

式内 笠間神社に関する由緒、口碑、伝説
祭神
  大宮比盗_
相渡神
  住吉三前神
  八幡大神
末社
  少彦名神
笠間神社の由緒
本社は延喜式内の笠間神社にして、遠く崇神天皇の御代より鎮座ましまし、大宮比盗_を祀る。和銅3年すでに奉幣のことあり、即ち笠間神社圭田四十七束二字田所祭住吉大神也。和銅3年庚戌4月奉圭田加礼有神家巫戸等とあり、古は社家社僧多数住し、館屋敷、三郎屋敷、源右衛門屋敷、坊子藪、大門大御堂経塚と称する遺名の存する如く、社地広大にして、氏子又数百戸あり、正三位笠間明神と称え、笠間郷(笠間村 北島村 宮保村 黒瀬村 石立村 松本村 小川村)一村の総社にして、大社として信仰者多く、近郷稀にみる名社なり。一時宮保八幡と称せしは、其の社地現宮保八幡神社と接続せし故なり、即ち、中古笠間神社神主東保、西保の二保に分れ後民家も東西に分離してより、現笠間村は旧西の保、現宮保村は旧東の保にして、宮保に八幡田と云う字あり、是に依りて宮保の保と云うべきを略して宮保村と云う。その八幡と称するは義仲の故事により当社を源氏の氏神なりと称せるより起りしものならん。斯くて現宮保八幡神社は明治7年8月笠間神社へ附属し、同年8月笠間神社の摂社となる。
其昔寿永2年木曽義仲加賀合戦に、平軍を追撃し此地に来る。時恰かも手取川洪水のため、渡るを得ず、当社に減水と戦勝を祈願せらるるに、その願空しからず、俄に減水して渡る事を得たり。依って兜及び喜悦書を奉ると云う。当時義仲附近住民より寄せたる煎粉に依り空腹を満たしたりと伝え、又其時用いし水の井戸を義仲弓堀の井と称へ社頭に伝う。依って氏子一同今に至るまで11月15日をきし煎粉祭、別に義仲祭とも称し、神前に煎粉を供え奉りて、氏子も共に食して御神徳を称え奉る特殊の祭典執行せらる。明治5年の土申11月加賀国第一区郷社に列せられ、明治39年9月16日県社に加列、同39年12月29日神饌幣帛供進神社に指定せらる。
大祭は3月14日祈年祭、15日春季大祭、6月23日例祭、9月15日秋季大祭、12月3日新嘗祭、
境内1822坪なり。
口碑、伝説
御紹介のことば
この口碑、伝説集は、先年亡くなられた北田喜代司さんが、自分の幼少の頃から、祖母さん、或は村の古老の人達から聞かされた言い伝えを真面目な気持で、丹念に記録せられた「笠間神社に関する伝説、口碑集」から抜莱したものであります。北田さんは永らく笠間神社の氏子総代として奉仕せられ、非常に敬神の念の厚い方でありました。昭和10年頃、この収録帳を何かの参考にと贈られたのであります。機会あれば氏子各位に御紹介致したいと思っていましたが、今度二千年祭り斉行の機会に皆様に御紹介出来ます事を喜ぶものであります。
科学文明の発達した今日、かような口碑、伝説は一般に軽視せられ、一片のお伽話的存在として、一顧も与えられぬ時代でありますが、而し、かうした口碑、伝説を詳細に調べる時、昔からの笠間神社への信仰状況、或は私達祖先の神に対する考え方なり、道徳なり生活なりの一端をうかがい知る貴重な資料ともなりますと共に、現代人としての私達に教えられる大切な面も多々含んでいるのであります。故にあながち未開人の精神的遺物と葬り去るべきものでない事をここに強調し、北田さんの真摯な態度に感謝し、御紹介のことばと致します。(柏木宮司)
筍祭の由来
筍祭とは、笠間神社の縁日にあたり、現今の例祭日として、神社最大の祭なり。
往古より笠間神社の杜は、一夜の内に忽然と現れりと言い伝う。その杜の内に一堂あり。近郷の人々、この一堂を氏神と称え祀りしものなり。時は5月の23日なりと云う。爾来5月23日を縁日とさだめ、村人業を休みて祭日となす。。明治に至りて太陽暦の採用せられるや、5月23日を6月23日と一月遅れとなしたり。5月23日頃は、境内に生い繁る真竹の筍の盛りなれば、この筍を神前に供えるの例なれば、人呼んで筍祭と称えり。明治維新と共に神社の制度改まり、大祭、中祭、小祭の制定だまり、奉幣使参向の例始りしより、この日を例祭日と定め、大祭の儀式をあげることとなりたり。
又笠間神社の氏子としては、笠間見徳寺の外に松本、石立、北島、黒瀬、小川新、阿弥陀島の大字の住民なり。7、8月頃境内の草取り、或は掃除に人夫を出し、神社の修理などもして、8月15日(改歴後9月)の秋祭りには、14日の宵祭に、氏子各戸より甘酒を献上して、そのおさがりをいただき、家族一同お相伴するの例なり。他村の氏子より献上せし事は、明治の25、6年頃までも続き、余も(北田氏)かすかに覚えぬ。
弓堀の井戸の由来
今より750年前、即ち安徳天皇の寿永2年、以仁王の令旨を奉じて、信州木曽に起こりたる源義仲は、大軍を率いて、長駆京都に上らむとして、平維盛と倶利伽羅に対陣し、火牛の戦術をもって、これを撃破し、追撃に追撃を加えて、松任より道を海岸線に取り、手取川(当時比楽河)に向いしも、敵は退却とともに、渡舟を奪い去りしため、義仲の軍勢渡るを得ず、徒歩せむ水嵩深く渡る術もなし、暫し軍を止めて方策を案んぜられたるも、名案なく当神社に祈願をこめむと、神官に間ひて日く、これなる堂宇は何神を祀れるやと、神宮答へて曰く、八幡大菩薩なりと。時の神官は、大宮比盗_と知りつゝも、義仲の意を取りて、源氏の守神八幡宮なりと答へたりと、義仲大いに喜び、わが祖先よりの守り本尊なりとて戦勝並びに減水の祈願をこめたりき。
されど、連日連夜の長途の行軍に、全軍綿の如く疲れ飢えたれば、附近の農家の一老婆、急場の糧として、煎粉をさしあげ、水にてかき立てて召し給へと教えたれど、その水なし、如何ともなしがたければ、老婆教えて曰く、この辺りは、何時にても掘れば、水湧き出ずると、そこで、義仲掘る道具とてなく、弓筈にて堀り給へば、忽にして清水滾々として湧き出でたるに驚き、その水もて、くだんの煎粉をかき立ててのみ、暫しの飢えを凌ぎ給ふ。河岸はと見れば、こはいかに、祈願の験しあらわに、水は何時しか減水して、遥かかなたへ、うら若き一人の美女、苦もなく渡り行く状をみ、それつとばかりに大軍は、その美女のあとより押し渡りて追撃、湊村の裏なる手塚の山の合戦となりたり。この美女こそ、大宮比盗_のお姿にして、大軍互に手を取り合ひて渡りたるより、後世手取川と称ふと伝ふ。義仲当社の霊験明らけきを尊み、かしこみて、甲、喜悦書、手鏡を奉納せりと云ふ。後世伝へて義仲弓堀の井戸と称へ、馬場参道右側に詠人知らずと伝へる和歌一首、即ち、水鏡見れどうつらで恋しきは、あわれその世のすがたなりけり、と刻む石碑とともに、今にその跡を残せり。
猶弓堀の井戸と相対して、大老松の根方に大桜の跡あり。今は細き若芽を残すといえども、これ義仲弓かけの桜なりと伝ふ。
煎粉祭の由来
近郷近在の人々、笠間の村に、米の炊せげぬ日、一日ありと、その日に御飯を炊げば鍋や釜はみなぬれると、いいはやされたり、即ち義仲の大軍、煎粉をかき立て、当社の御神助を得て、手取川を渡り得たる日こそ霜月15日なりと、よつて土民御神徳のいや高きを称へ奉り、この日をきして、必ず各家毎より御神前に煎粉を奉献し、祭祀を奉仕したり。
今猶11月15日これを伝ふ。世にこれを煎粉祭(別名義仲祭)といふ。
新嫁の急を救ひ給ふ物語
私(北田氏)の祖母(文政8年、西暦1825年生れ)の若かりし頃、姉妹もただならぬ親しき友ありき。そわ、わが笠間村の旧家笠森家の娘さんなり。年頃となり、縁ありて野々市村の藤村家へ嫁がれたり。さて、徳川幕末時代の野々市の藤村家といへば、殿様の御本陣とて、国主御通行の時の御宿泊所、又は御休憩所にて、名字帯刀を許され、武士に匹敵する格式をもち、飛ぶ鳥も落す威勢他を払ふ堂々たる豪家なり。笠森家も地方の豪家なれど、辿も格段の相違ありたり。
さて愈々輿入れとなり、連日の祝宴も終わりて、新嫁の仕事始めとして、袴一着仕立てるよう反物を与へられけり。
さて嫁さんは田舎に過ぐる針仕事の技芸を仕込まれたれど、その頃の百姓家の娘とて、袴まで手は届かざりしとみえて、ハイと答えて、お受けはしたものの、はたと当惑せり。さりとて、習わぬものは縫えもせず、縫えぬと云ふも、今来たばかりの花恥かしき花嫁、いかに、これが断られようか、出された反物を前に、心は千々に乱れ勝ち、されど、苦しい時の神だのみとか、何卒この場の急をお救い下さいませと、心はいつしか氏神様のもとに、一心不乱の祈願をこめてあれば、一人の気高き婦人現はれて、何ぞお困りの事ならん、袴の裁ち方、縫ひ方、いと丁寧に教へられ、心得せられし頃、ふと気付きしも、いつしかその婦人の姿も見えずなりにけり。さては笠間の神様なりしか、あな有難や、勿体なき事かなと、遠く故里の空を伏し拝み、見事に仕立てあげられたと云ふ。これも祖母より口癖の如く聞かされし尊きお話なり。
力善右ヱ門の伝説
今より200年以前の頃なりと伝ふ。石川郡中奥村字倉光に善右ヱ門なる一人の馬子あり。力強くして、宮角力、ばん持など力の技に優れたり。されど、上に上ある世のならい、如何にしてか、大力の持主たらむと念願を起し、霊験あらたかなる笠間神社に祈願をこめて何卒われに百人力を授け給へと、毎夜かかさず詣って、一夜毎に一結びの苧麻を積み、愈々百夜の満願果して、百結びの苧麻を一まとめになし、金剛力をふりしぼり引き切れば、あな、不思議や、百結びの苧麻も藁すべの如く、何んの苦もなく引き切れたれば、やれ嬉しや願いは叶ひたりと、家路に帰らむとすれど、不思議や、己の力に、己の足は大地にめり込み、歩き行く事もかなわず、はたと当惑しありしに、そこへ神様が現はれ給ひて、善右ヱ門、お前の願ひし百人力を与へたるぞ、と仰せられ給ふ。善右ヱ門、はっと大地に平伏して曰く、お願の力を授け給へるも、この通り歩く事もかなわず困りおる故、何にとか方法を授け給へと申し上げれば、神様は、それでは敵一倍の力を与へむ、と仰せられ給ふ。善右ヱ門、敵一倍の力とは如何なる力なるやと伺い立てれば、一人力の敵に向かへば二人力となり五人力の敵に向かへば十人力となり、十貫の物に向かへば二十貫、二十貫の物に向かへば二百貫の力となると仰せられ給ふ。善右ヱ門、喜びて、われに敵一倍の力を授け給へと願へば、又もとの軽き身となりて帰る事を得たり。その後角力はよし、番持はよし、善右ヱ門の向かふところ敵なく不思議な力持ちよと、近郷近在はおろか、遠く他国にまでその名聞えたり。或時、国主前田家々中の豪力をもつて名ある若侍三人、善右ヱ門の怪力を聞き、如何なる者にや、会つて拙者等の力量の程を見せ、土百姓の鼻をあかさむと、倉光村へたづね来たれり。時に善右ヱ門は馬を追いて、田を耕し居たりしが、一筋の川のため渡る事を得ず、善右ヱ門とは貴様か、その方に少し要件があつて参つた、何処か橋がないかと云へば、善右ヱ門、それはそれは、お気の毒な次第、暫くお待ち下されよ、とばかり馬の鋤を取りはずし、片手で川向へ差し出し、お三人ともこの鋤の上にお乗り下され、と云へば若侍、互いに顔見合わせて、その力量の程に驚き、恐る恐る鋤の上に乗れば、善右ヱ門軽々と片手で持ち上げ川を渡し、附近の松を撓めて、善右ヱ門腰うち降し、ゆうゆう煙草をのみ始めたり。くだんの侍、度胆をぬかれ、その松に腰掛け、色々と力業の話しを聞きおりしが、やがて仕事にかからむと、善右ヱ門腰を浮かせば、若侍共、松の跳ね返りを食つて、遠く雲や霞とはね飛ばされ、今の一木村馬渡しのあたり、井の手橋へ落ちて死したりと云ふ。世に伝へて、この橋を命の橋と云ひしも、後世何時しか、井の手橋と変りたりと伝ふ。
扱て善右ヱ門かかる重宝な怪力を授かりし御礼とて、石の鳥居を奉らむと、夜中、人知れず背負い、一人にて建て帰らんとせしが、仲々に建て得ず、建てんとすれど倒れ、建てんとすれど倒れ、ほとくに困り果てたるに、何時来りしか一人の少女、つくなんと見てあれば、善右ヱ門、小婢少し手伝を頼む、と云ひて少女に手伝はせ、漸くにして建てたる時、くだんの小婢、一首の歌を詠み残し、何処ともなく掻き消す如く見えずなりき。その歌の上の句は、自分(北田氏)が幼少の折、時々祖母から聞かされしも覚えなく、その下の句のみ覚えあり。
……○○○……現世祈りは神の苦しみ(下の句)
とのみ覚えぬ。さて、その鳥居は、何程もなく横に渡せし部分落ち、見るかげもなく、二本の柱、地中深くめり込み、八字形となりて残れり。後の世の人々、善右ヱ門は、無理なる現世祈りをしたる神罰にて、八塞地獄へ落ちしものなりと云い伝えり。これ馬場参道にその形骸を残す八の字鳥居の由来なり。その後笠間神社には、石の鳥居は御神慮に叶わぬと禁ぜられ、今に木の鳥居なる由緒なりと云う。
右は氏子間に伝りたる伝説なるが、少し離れたる村落の伝説には、倉光の善右ヱ門なる者、力あり又美声の持主なりき。往古、百姓の使いし肥料など今の美川、昔の本吉港に陸揚げせられ、人馬の背にて運びしなり。善右ヱ門馬方なりしため、殆ど毎日の如く、本吉へと馬を引き、笠間神社の前を、持ち前の美声を張りあげ、歌を唄いつつ通いしを、その美声に聞き惚れ給いし笠間の神様は、或日善右ヱ門に、お前の願いは何でも叶えてやるとの仰せに、善右ヱ門喜び、敵一倍の力を願いしと聞くも勿体なき事と広く言い伝えり。昔の俗謡の囃子に「笠間の神様今でも女郎じや」「矢張り女郎じや」と云ひけり。
不思議なる手洗鉢の物語
往古は神仏に対し、真剣的な祈願を込めたる者多く、これを願懸けと云えり、己の利慾のため、恋のため、呪咀のためと種々様々の願懸けありき。殊に笠間神社は、近郷稀にみる霊顕あらたかなる神社として、願懸人の多かりし由、この近在で願懸けといえば、笠間神社に限るとか云い伝えられ、自分の幼少の折、この願懸けの丑の刻詣りに出会いし人々の色々の話を聞く事度々なり。当時前田家の家中の侍など、遠く金沢より来りし由なるが、徳川末期の頃、如何なる人の如何なる祈願の成就せしにや、現今の御手洗鉢を夜中、人知れず密かに境内に据え、奉納したる寄篤の者あり、未だに何人の奉納なりや知れず、当時の路は狭隘なる野道にして、荷車もなき未開の時代なれば、如何にして持ち運びしか、不思議なる奉納物の一つなりと伝う。これ自分の祖母の幼なかりし頃の事なりと度々聞き覚えたり。
宮田川の命名由来
或夜一人の盗人、如何なる目的にか、神社本堂内に忍び込み、勿体なくも御神体を盗み出して背負い、上方指して逃れむとせしが、当時、村端を流るる川に架けたる橋迄来たりしが、橋の上より如何にしても動きがとれず、一歩も半歩も足は前に進まず、不動金縛りの如くなりぬれば致し方なく、御神体を卸して川の中に投げ込み、何処ともなく逃れ去りぬ。すると、神官の夢枕にお立ちになり、この由お告けありければ、神官驚きて、早速取り調べたる処、夢のお告げの通り、御神体は橋の下に勿体なくも捨てられてありたり。神官、恐懼して抱き上げ奉遷したりと。この事ありてより、この川の名を宮川と称える様になり、後宮田川と変わりて現在に至りしものなりという。
蛇藤の伝説
明治26、7年頃までの笠間神社の杜は、森林欝蒼として昼なお暗く、神巌の気、天地に満ち、自ら頭を垂れしめたり。随いて種々の鳥類、ここを安住の地として集り来たれり。現今は内務省令により、神社前に制札を立て、堅く魚鳥の捕獲を禁ぜられたるも、往古はかかる定なく、随意勝手に立入り、心なき者共捕獲して荒したり。当時の金沢の侍など、特に鳥さしなどして、附近の村々を巡り廻りたり。或時一人の侍、差し竿を持ちて、竹木繁る境内に立入りて、一心に鳥をかまえ夢中なりし時、其の頭上高く、木の枝より枝へと一匹の大蛇、口焔物凄く、今にも、くだんの武士を一呑みにせむとする形相に驚き、腰も抜かさぬばかりに逃げ出し、村人に斯くと告げ、救いを求むれば、村人はそれとばかりに、境内に行つて見れば、何時しかその影さえ見えずなりぬ。かくの如きこと、一度ならず二度ならず、度々の事なりしかば、是れ必ず境内を荒らして生類の命を絶つ者をこらしめの神業にて、かの繁茂せる藤蔓をして蛇と見せられ給いしものならむと云えり。その藤は本堂わきに生い繁れる一抱もある大きな藤にして、枝から枝へ木から木へと、あたかも大蛇の如く這い廻りてあり、春ともなれば、紫の花房、森を色彩り、その光影は誠に見事なり、人呼んでいつしかこの藤を蛇藤と称えたり。
又笠間神社の社紋として、下り藤をもちいたるも、かかる藤よりとりしものにして、今は廃れたりといえど、明治三十年頃まで、毎年秋祭り、即ち9月15日より三日間の祭礼に、鳥居に飾る〆縄は、太きところ廻り四尺位にて、大蛇の如き形にして飾りしものなり。これを造るのが当時の若連中の重要な年中行事なりき。9月13日夕食後若連中の総出により、区中より新米の藁を集め、これをすぐるもの、太さ一尺五寸位の棒にする者、その棒三本を集めて、一纏めとして綱となし、鳥居にかけて帰る頃は夜も明けそめる頃なり。かかる行事も人間の根気のなくなりしとともに、何時しか消え失せたるは、如何にも心淋しき事なり。
又神社境内も明治の半頃迄、幽林森々、幽遂にして、松、杉、欅などの老樹古木亭々として重なり、神域の崇高なる、人をして襟を正さしむるものあり、殊に馬場参道の両側、雑木生い繁り、新緑の初夏、青葉の隧道を通ずる如くなりしも、僅かの利徳に目をくれ、神前も不憚小学校の敷地として校舎を建て、あたら風致を壊せしこそ口惜しき事にて、玉垣前の松本へ通ずる道路も、かつてその昔、見徳寺参道、笠間参道として、石垣の両端に鳥居ありて、さすが大社の面影を残せしも、郡道に移還せし以来、見る蔭もなく神域を損うこと甚しく、かつて藩主慶寧公、本吉より石立へ出で、石の木見物の上、笠森家に御休憩、笠間神社へ御参詣の折、馬場の老松、老杉直立せるを見られ、大いに称でられしと伝うも今はその影もなく哀れなり。その時、称でられし松を、みかえりの松と称せり。

由緒書



笠間神社

笠間神社由来碑
 当社の勧請年代は不詳であるが延喜式内の古社であります。主神は大宮比大神。相殿には、住吉三前大神、八幡大神、それに末社より合祀した少彦名大神を祀る。
 笠間郷一村の総社で明治6年笠間村、黒瀬村、松本村、小川村、石立村、北島村、東米村、西米村、鹿島村、蓮池村、平加村を当社の附属社と取り極められ、更に明治7年、宮保村、源兵島村、福留村、五影堂村、長島村、小上村、米永村を附属社と定められる。明治5年加賀国第一区郷社に指定を受け、明治8年宮保八幡神社を当社の摂社に、更に明治30年県社に加列。明治39年神饌幣帛供進神社に指定される。
 其昔寿永2年木曽義仲加賀合戦に平家の軍勢を追撃し此地に来たとき恰も手取川洪水のため渡る事ができず当社に減水と戦勝を祈願せられるに願空しからずして、俄かに減水して渡る事を得たので、当社に兜及び喜悦書を奉ったと伝えられる。当時義仲付近住民より寄せられた煎粉を食して空腹を満し見事勝利を得たと伝えその当時用いた井戸を弓堀の池という。
 氏子一同それより後御神得を称え11月15日煎粉祭、別名義仲祭と称して神前に煎粉をお供えし氏子一同も共に食する特殊祭典が執行される。今表参道に義仲弓堀の池が現存し、義仲弓かけ桜もあったが枯死する。又表参道(馬駆け馬場ともいう)に力善右衛門の奉納したと伝える八の字鳥居もありその他数々の口碑伝説を残している。古は社家社僧多数住居し、館屋敷、三郎屋敷、源右衛門屋敷、坊子屋敷、坊子藪、大門御堂経塚と称する遺名のある如く、社地は広大で氏子数百戸ありて、正三位笠間明神とも称えられた大社で、その霊験もあらたかで信仰者も近郷に稀なる程であった。境内には丈余の松、杉、欅などの老樹古木亭々として重なり合い昼なお暗い神厳な神域で人々をして襟を正さしめたのであるが、近代文化の移り変りと共に古えの面影ないのは淋しい限りであります。境内坪数約1800坪。例祭6月23日別称筍祭
昭和52年9月吉日

社頭石碑



笠間神社

八字鳥居の由来
 今より500年程前の永正年間、(1504〜21)倉光村に善右衛門なる力持ちの馬子あり。善右衛門さらに大力の持主ならむと、霊験あらたかなる笠間神社に毎夜祈願し、百夜の満願を果たせし時大宮比神現れ出で、百人力を与うる。善右衛門帰ろうとするに、足は大地にめり込みて歩けず。善右衛門困り果て、神様にお助け願えば、百人力ではなく「敵一倍」の力を授け給う。
 その後不思議なる力持ちよと、その名広く聞こえたり。
 敵一倍の力を授かりし御礼をと、石の鳥居を建立せんとするも、中々に建てえず。そこにいつしか現れし少女に手伝わせ、やっと建てたるも何程もなく崩れ落ち、二本の柱地中深くめり込み、八字形となって残れり。この鳥居はそれなり。
 その後当神社に石の鳥居は御神意にかなわぬと語り伝えらる。

社頭掲示板



笠間神社

本社は延喜式内の笠間神社にして、遠く崇神天皇の御代より鎮座ましまし、大宮比盗_を祀る、和銅3年すでに奉幣のことあり、即ち笠間神社圭田47束2字田所祭住吉大神也、和銅3年庚戍4月奉圭田加礼有神家巫戸等とあり、古は社家社僧多数住し、舘屋敷、三郎屋敷、源右衛門屋敷、坊子薮、大門大御堂経塚と称する遺名の存する如く、社地広大にして、氏子又数百戸あり、正三位笠間明神と称え、笠間郷(笠間村、北島村、宮保村、黒瀬村、石立村、松本村、小川村)一村の総社にして、大社として信仰者多く、近郷稀にみる名社なり。一時宮保八幡と称せしは、其の社地現宮保八幡神社と接続せし故なり、即ち、中古笠間神社神主東保、西保の二保に分れ後民家も東西に分離してより、現笠間村は旧西の保、現宮保村は旧東の保にして、宮保に八幡田と云う字あり、是に依りて宮保の保の云うべきを略して宮保村と云う。その八幡と称するは義仲の故事により当社を源氏の氏神なりと称せるより起りしものならん。斯くて現宮保八幡神社は明治7年8月笠間神社へ附属し、同年8月笠間神社の摂社となる。其昔寿永2年木曽義仲加賀合戦に、平軍を追撃し此地に来る。時恰かも手取川洪水のため、渡るを得ず、当社に減水と戦勝を祈願せらるるに、その願空しからず、俄に減水して渡る事を得たり。依つて兜及び喜悦書を奉ると云う。当時義仲附近住民より寄せたる煎粉に依り空腹を満たせりと伝え、又其時用いし水の井戸を義仲弓堀の井と称へ社頭に伝う。依って氏子一同今に至るまで11月15日をきし煎粉祭、別に義仲祭とも称し、神前に煎粉を供え奉りて、氏子も共に食して御神徳を称え奉る特殊の祭典執行せらる。明治5年の土申11月加賀国第一区郷社に列せられ、明治30年9月16日県社に加列、同39年12月29日神饌幣帛供進神社に指定せらる。

石川県神社庁



加賀国INDEXへ        TOPページへ


認定こども園