楢本神社
ならもとじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】楢本神社 加賀国 石川郡鎮座

   【現社名】楢本神社
   【住所】石川県白山市上柏野町イ-89
       北緯36度29分55秒、東経136度32分55秒
   【祭神】日本武尊
   【例祭】10月1日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】寿永2手取川洪水で社殿流失・現今社地遷座
       明治14年4月27日楢本神社と改称
       明治39年12月29日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】御膳氏
   【鎮座地】当初現在の地に鎮座
        寿永2年中本村の南宇立原へ転
        後手取川侵入し再び今地に移す

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「乙剣社」と称していた
   【社殿】本殿切妻造瓦葺
       拝殿・幣殿・社務所

   【境内社】

かってこの地は手取川の氾濫地帯であった。度々の氾濫によって、集落の流失、離散が繰り返された。その結果楢本神社も遷座・分祀が頻繁に行われ、結果として3社が式社を称するようになった。


楢本神社

楢本神社由緒
 村社にして創立年代明らかでない。初め乙剣社と呼ぶが明治14年に楢本神社を再建する。明治39年12月29日神饌幣帛供進神社に指定された。
 社記に祭神は御膳氏の祖比古伊邪許志別命と云う説があるが確証は見当らない。
 社伝によると往古は御饌社と名付け、大社にして社地広大、御供物準備する建物と接続し、老楢・古柏密林をなして社域を守る。当社は延喜式神名帳記載の旧社(式内社)としても、近郷の住民に大変尊敬されていた。寿永2年後鳥羽天皇時代(802年前)に、手取川大洪水となり、社殿ことごとく流出し、現在地に移された。
 口伝えでは往古御膳氏の遠祖屋主思命の孫、市入命国造としてこの地に居住し、当社に奉仕、後に訳があって僧となり宝山院と名乗る。代々当社の社僧を務める。そして御膳の榊葉を諸国に神社に納めたといわれる。現在御膳の館という地はその居館のあった所ではいかと思われる。
解説
一、 御膳氏とは
日本書紀によると紀元123年頃、奈良県生駒郡斑鳩地方に本拠を置き、天皇家の台所関係をつかさどった古代豪族で、聖徳太子や弟久米王の妃を出した家柄である。その一族が当時の政府より北陸へ派遣され、北朝鮮(高句麗)から来る使者の接待をして、当地に居所を定めたと思われる。
一、 式内社とは
醍醐天皇の命により紀元905年(一千有余年前)国の台帳に載せられた古い神社のことである。
明治7年松任市にある三つの楢本神社が「当神社こそ本物の式内社」と、互いに競り合い、時の県令(県知事)が地元に対し、あるゆる古文書を提出させ、証拠書類を取り上げて、最後に「おみくじ」で決めたという汚点があるが故に、敢えて式内社と記す。  謹書 昭和61年3月20日 上柏野町楢本神社氏子総代

社頭掲示板



楢本神社

創立ノ年代ハ明記ヲ欠クモ、往古御膳氏ノ遠祖屋主思命ノ孫市入杵命國造トシテ此地二住シ、當社ニ奉仕シ、御膳ノ木ノ葉ヲ諸國ノ神社ニ納メラレ、後世、宝山院ト號シ、代々當社ノ社僧トナリ、社頭頗ル森嚴ナリシガ、壽氷二年手取川洪水ノ爲、社殿悉ク流失ス、依テ現今ノ社地ニ遷座シ、爾來規模トミニ衰微スト雖モ尚神田社領ヲ有シタリ、今御膳ノ館ト称スル地ハ其居館ノ在リシ処ナリト傳フ、口碑、元、劔社ト称セシガ、明治14年4月27日楢本神社ト改称シ、同39年12月29日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル

社頭掲示板



楢本神社

創立年月不詳。往古御膳氏の遠祖屋主思命の孫市入命が国造としてこの地に住して、当社に奉仕し、御膳の柏の葉を諸国に納め、後、宝山院と号して社僧となった。寿永2年手取川の洪水のため全て流失したので現在の地に遷座したと伝える。もと、舘社と称したが、明治14年楢本神社と改称、39年神饌幣帛料供進神社に指定。

石川県神社庁



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