従来十一面観音を奉祀してきたのであるが、明治の神仏分離にあたつて寺院に預け、同41年に本社境内に観音堂を建立して遷座し現在に及んでいる。十一面観音を祀つたのは古くから白山の神と仰がれてきたからだと思われる。 かってこの地は手取川の氾濫地帯であった。度々の氾濫によって、集落の流失、離散が繰り返された。その結果楢本神社も遷座・分祀が頻繁に行われ、結果として3社が式社を称するようになった。 各社はお互いに式社であると主張し、とくに下柏野村と宮丸村との式社争論は激しいものがあった。 下柏野の社の由緒が宮丸の社にとられたという風聞がしきりにあり、下柏野は大いに憤激・抗議し、ために神職は警察に留置されるといつた騒動まで惹起した。 |
楢本神社 創立年代不詳。往古より楢本神としてこの地に鎮斎、近郷稀有の大社。上柏野、小上、荒野柏野を合わせて四ヶ村の総社。寛文年間三村を分離、天台宗青蓮寺が寛元年中より別当として神勤、元和元年巡見使の社参あり、元禄16年越前国逸見五郎兼雄が参籠したと伝える。明治39年神饌幣帛料供進神社に指定。 石川県神社庁 |