佐奇神社
さきじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】佐奇神社 加賀国 石川郡鎮座

   【現社名】佐奇神社
   【住所】石川県金沢市佐奇森町ホ113
       北緯36度35分11秒、東経136度35分47秒
   【祭神】息長帶比売命 (配祀)菅原大神 表筒男命 中筒男命 底筒男命
       もともとは息長帯比売命一柱であつた。

   【例祭】4月3日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天平4年(732)創建
       享保16年(1731)鎮座千年祭齋行
       明治14年11月郷社
       明治40年9月15日菅原神社・住吉神社を合祀
       明治41年4月8日神饒幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿切妻造
       幣殿・拝殿・神饌所・社務所

   【境内社】

佐奇森の地名は中古防人(さきもり)が置かれたところから名付けられたもの。
神功皇后越前の国気比之浦より御船に召され、筑紫に赴き給う時、暫く御船を寄せられた旧跡で、天平4年にその地に皇后をまつり、郷民これを崇敬せりという。


由緒

佐奇神社の由緒
金沢市佐奇森町に鎮座し、祭神は息長帯比売(おきながたらしひめ)命・菅原大神・表筒男命・中筒男命・底筒男命、旧社格は郷社。
「延喜式」に加賀国石川郡十座中の佐奇神社とあるのが当社で、社記によれば、神功皇后が越前国気比の浦より船出して筑柴に赴く途中船を寄せた旧跡の地に 732年(天平4)創建という。
三州地理志稿に「在鷺森村、今称鷺森社、天平四年始焉、祀神功皇后」とある。
佐奇森の地名は中古防人(さきもり)が置かれたところから名付けられたもので、三州志に「石川郡鷺森村は防人戍辺の地の遺名成べし」とある。
また犀川の河名も一説には当社名に由来するという。
加賀国式内等旧社記に「佐奇神社、式内一座、大野庄鷺森村鎮座祭神息長帯姫神、佐奇川之河端也、河名或為犀川」とある。
明治9年社殿を改築、拝殿は天徳院にあった第4代藩主光高の御靈舎(棟札によると作事奉行小寺武兵衛ら3名で1789年(寛政元)7月7日御上棟)を移築したもの。
明治14年11月郷社に列せられ、同40年9月赤土の菅原神社と住吉社を合祀した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



佐奇神社

鎮座地 金沢市佐奇森町ホ113
祭神 息長帶比売命(神功皇后)
   菅原大神 表筒男命 中筒男命 底筒男命
祭日 例祭 4月1日
   春祭 2月1日
   秋祭 10月15日
由緒
延喜式に加賀国石川郡十座中に佐奇神社とあるのは当社である神功皇后が越前国気比の浦より船出して筑紫への途次暫時船を寄せた旧跡で天平年中の創建という。
この地は中古防人が置かれた所である。また犀川の名称も社名に由来するともいう。加賀国式内社等旧社記に佐奇神社式内一座祭神息長帯姫神佐奇川の河■なり河名或は犀川となすとある。明治14年郷社に列せられ明治40年菅原神社住吉社を合祀した。
現在の拝殿は加賀藩主前田家の御霊舎として天徳院にあったのを明治初年移築したものである。当社は享保16年鎮座千年祭齊行以来五十年ごとに式年祭を行う、本年1250を迎え記念してこの碑を建つ。

社頭掲示板



佐奇神社

金沢市佐奇森町に鎮座し、祭神は息長帯比売(おきながたらしひめ)命・菅原大神・表筒男命・中筒男命・底筒男命、旧社格は郷社。「延喜式」に加賀国石川郡十座中の佐奇神社とあるのが当社で、社記によれば、神功皇后が越前国気比の浦より船出して筑柴に赴く途中船を寄せた旧跡の地に 732年(天平4)創建という。三州地理志稿に「在鷺森村、今称鷺森社、天平四年始焉、祀神功皇后」とある。佐奇森の地名は中古防人(さきもり)が置かれたところから名付けられたもので、三州志に「石川郡鷺森村は防人戍辺の地の遺名成べし」とある。また犀川の河名も一説には当社名に由来するという。加賀国式内等旧社記に「佐奇神社、式内一座、大野庄鷺森村鎮座祭神息長帯姫神、佐奇川之河端也、河名或為犀川」とある。明治9年社殿を改築、拝殿は天徳院にあった第4代藩主光高の御靈舎(棟札によると作事奉行小寺武兵衛ら3名で1789年(寛政元)7月7日御上棟)を移築したもの。治14年11月郷社に列せられ、同40年9月赤土の菅原神社と住吉社を合祀した。

石川県神社庁



佐奇神社拝殿

佐奇神社は、社伝によれば天平4年(732)の創建とされ、旧社格は郷社です。
 拝殿は、天徳院の境内にあった5代藩主綱紀の御霊堂を、明治9年(1876)に移築したものです。明治7年に前田家が葬祭を仏式から神式に改めたことにより、御霊堂が売却されました。移築された後、明治39年(1906)に曳家を行い、拝殿の向きを西面から南面に変え、今に至るまで若干の改築を行っています。しかし御霊堂建築当初から改築に至る図面や部材の痕跡が残っており、本来の姿をうかがい知ることができます。また、拝殿には鉛瓦が伝わっており、本来は鉛瓦葺きであった可能性があります。
 御霊堂に付いていた棟札には、寛政元年(1789)に加賀藩御大工頭(おんだいくがしら)清水次左衛門藤原峯光が建築したこと、綱紀の戒名である「徳翁一斉居士」が記されています。峯光はこの他に重要文化財である気多神社本殿などを建築しています。そのため、気多神社本殿と御霊堂は、細部の意匠が似通っています。
 佐奇神社拝殿となっている御霊堂は、3間四方が多い霊廟建築としては大型で、3代将軍家光を祀る霊廟と同規模の5間四方です。また、全国的に見ても、18世紀以降に建てられた霊廟建築は希少であり、彩色を用いず彫刻のみによる装飾手法など、18世紀の霊廟建築の特徴をよく伝えており、近世に建てられた藩主の御霊堂として、市内に残る唯一のものです。

金沢市の文化財と歴史遺産



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