大若子命の子孫(一説に御馬織連(みまおりのむらじ))がこの地にとどまり御馬皇子と呼ばれ、祖先神を祀ったものと思われる。
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由緒 延喜式内 御馬神社由緒・沿革 御馬神社(みまじんじゃ)は、三馬郷(旧石川郡三馬村一帯)の総社で、仁寿(にんじゅ)元年(851)に正六位上の神階(しんかい)を授けられ、歴代朝廷の尊崇も篤く社地広大で社殿も広荘で隆盛をきわめておりました。 平安最盛期の延喜5年(905)に、醍醐天皇の命により編纂した律令政治の基本法「延喜式(えんぎしき)」が制定され、この延喜式五十巻のうち第九巻と第十巻の「神名帳(しんみょうちょう)」に所載されている全国三千三十二座(社)の由緒ある神社を「延喜式内社」と呼び、官国幣社として国家より班幣(祭祀料)を賜っておりました。 加賀国石川郡では御馬神社を含めわずか十座(社)しか延喜式に所載されておらず、郡内では鶴来の白山さんや松任の笠間神社、金石の大野湊神社などと並び称されるお宮でした。 後一条天皇の頃に加賀国の守護富樫家が野々市に館を建ててからは、代々御馬神社を崇敬し、たくさんの寄進や社殿の修復に尽くされましたが、寿永(じゅえい)二年の源平の合戦の折、木曾義仲の軍勢によって兵火に罹り、神宝や社記もすべて焼失してしまいました。 その後富樫氏の力で再建されましたけれども、長享(ちょうきょう)・延徳(えんとく)年中の富樫氏の内争があってからは次第に荒廃し、昔の面影を失ったことはまことに残念なことです。 御馬神社は、御馬皇子(みまおうじ)が神を祀ったことを社名の由来としますが、その御馬皇子とは加賀国式内等旧社記(かがのくにしきないとうきゅうしゃき)に、「御馬明神(みまみょうじん)・祭神・大若子命(おおわこごのみこと)」とあり、大若子命はその昔朝廷より越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ、大いに旗(幡(はた))を挙げて戦いに勝ったので、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の尊称を与えられました。 その大若子命の子孫(一説に御馬織連(みまおりのむらじ))がこの地にとどまり御馬皇子と呼ばれ、祖先神を祀ったものだと考えられます。 また、大若子命は前述のとおり大幡主命とも呼ばれ、機織りの神として全国の幡生神社系のお宮に祀られており、特に能登を中心に北陸には大幡神社や幡生神社の社号が多くあり、大若子命が北陸遠征の際に機織りの技術を伝え、感謝した里人が神として祀ったものではないかと、大正十四年に内務省が発刊した「特選神名帳」の加賀国石川郡御馬神社の項に書かれております。 市内の間明町にも御馬神社があり、どちらが延喜式内の正社かとの論争もありましたが、今から1150年ほど前に書かれた日本霊異記(にほんりょういき)に「御馬河の里(中略)今石川郡久安村是なり」とあり、本社が御馬堂とも呼ばれ、のちに二万堂と転語したこと、また神様にお供えする神饌を調理したり御洗水(みたらし)に使う清き流れの川を(ニマ)とも云ったことからも、御馬川のほとりに鎮座する本社がまさに正社といえます。 加賀古跡考(かがこせきこう)という書物に、「富樫泰高(とがしやすたか)久安に下屋敷を構え当社に稲荷明神を勧請し(中略)天道院のちに金沢に移す」と記してありますが、昔日北華録(しゃくじつほっかろく)に富樫氏が邸内鎮守の神として稲荷を勧請崇拝したことが見え、社僧天道院(しゃそうてんどういん)はその富樫氏邸内鎮守の稲荷を遷したわけで、現在御馬神社に祀られている稲荷神と市内並木町鎮座の浅野川稲荷神社とはまったく関係がないことが、大正13年発刊の石川県石川郡神社誌に書かれております。 なお、富樫氏邸内の稲荷社があった地に、義経笈懸(よしつねおいづるがけ)の松があったそうですが、延宝年中(1670年頃)に枯れてしまったと伝えられています。 明治6年村社となり、同39年久安小字サラスイの無格社田中社(中久安)と、久安小字サントサに鎮座の無格社八幡社(下久安)を御馬神社(上久安)に合祀して、同年12月29日に神饌幣帛料供進神社指定されました。 戦時中は御馬神社の名にあやかり、軍馬のお守りを求めて軍人さんや出征兵士の家族らが多数お参りに来られました。 お祭りの余興には、「喜楽座」と呼ばれる芝居興行が行なわれ、久安の芝居として近郷近在に有名で、たくさんの人が境内をうめました。 昭和24年8月10日、拝殿改築を祝う竣工慶賀祭が齋行されましたが、歳月とともに社殿の傷みも甚だしく、平成の御代となり氏子の戸数も二千戸に達しようとする時、先祖のお蔭によって残された尊い財産を久安地区発展のために有効利用しようと英断し、押し進めて来た土地区画整理の大事業も完工し、神様のお蔭そして先祖のお蔭、氏子の皆様のお蔭により先づ社務所が完成し、御馬神社改築奉賛会を結成して行なわれた御造営事業も、平成4年3月29日竣工慶賀祭が執り行われ、境内整備も含めて往年の延喜式にみる御馬神社に復興され、加賀の名社としての面目を一新いたしました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
御馬神社 ご由緒 御馬神社は三馬郷の総社で、産業の発展、五穀豊穣、商売繁盛、必勝合格、文化興隆、安産子宝、火除けの神として大変なご神徳があり、正6位上の高い神階とともに延喜式内社として石川郡十座の1つで、白山比C神社と並ぶ加賀国の名社で、平安期には国幣社として国家より祭典費が支給された歴史の古い由緒のある神社です。 朝廷はもとより加賀の守護富樫氏は代々当社を崇敬し社殿の造営や多くの寄進を受けました。 社頭掲示板 |
御馬神社 当社は延喜式内の古社にあてられ、歴朝の崇敬篤く、長享2年富樫泰高は久安に下屋敷を営み御馬稲荷を勧請す。社僧天道院代々奉仕し、天正年間尾山に移る時、同形の神体を作り分霊の上、浅野川稲荷神社を創立す。明治6年村社に、同39年田中社、八幡社を合併、同年12月神饌幣帛料供進神社に指定される。 石川県神社庁 |
御馬神社 延喜式内御馬神社由緒 当社は三馬郷の総社で、歴代朝廷の尊崇も篤く国よりの奉幣を賜る官社として正六位上の神階を受けられ、平安時代に編纂された延喜式に所載される。全国3132座の神々とともに延喜式神名帳に加賀国石川郡10座の一として官社に列せられ、鶴来の白山比盗_社と松任の笠間神社に次ぐお宮として1200年の古社でもあり、歴史を誇る加賀国名社でもあります。 社頭掲示板 |