幡生神社の「ハタフ」を「ハトリ」として呉服明神と称したため後に小松の機織女の信仰を集めた。 |
幡生神社 吉竹は既に奈良時代から集落があり、幡生神を祭神とした神社奉仕が行われていた。養老2年に越前の僧泰澄が釜見谷に薬師如来を奉安した薬師堂を建てたのも、幡生神は薬師如来と同一のものだとする神仏同体説により、この地方に仏教を広めんとした方便からであった。 また、天平神護23年の記録によれば、吉竹は奈良の東大寺の水田250町歩の広い幡生庄なる荘園の中心地であった。 その頃はまだ加賀国も能美郡もなく、越前国江沼郡と呼ばれていた遠い昔の事であった。 平安時代になると延喜17年から、全国の神社の中でも由緒の古い氏子の多いものを、延喜式神名帳に記入することが始まっている。これらの神社を式内社と称している。 幡生神社は勿論式内社の1つであった。 鎌倉時代には、守護富樫氏が幡生神社を崇敬し、文治5年に社殿の再建を行っているが、神仏混交時代であるため慶林坊、済陀坊、玉泉坊などの社僧が神社に奉仕した。室町時代は富樫氏が一向一揆に亡ぼされ、一揆の争乱がつづいた為、社殿は全く荒廃し、神社にとっては受難の時代であった。 やがて、戦国時代も終わり、江戸に徳川幕府が、各地に大名が統治する幕藩体制が始まる。加賀では三代藩主前田利常が小松城に隠居した。とくに民政にはげんだが、万治3年に神殿の復興を行い、織物、製糸、養蚕の保護育成に格別の配慮をし、ために織物、養蚕が長足の発達をした。 由来、幡生神社は織物や養蚕の守護神であり、呉服明神と呼ばれていたので各業者がこぞって参詣・・・・・・16ヶ村の総社として栄えたのであった。社僧玉泉坊の流れをくむ斉官民によって、養蚕のお守り札が配られたのもこの頃の事であった。 明治維新に神仏分離が断行されると、薬師堂と別れて本来の幡生神社となり、15年に旧社格村社が郷社に昇格、40年には稲荷神社と吉竹白山神社とを合祀、昭和3年11月5日に県社に昇格している。 現社殿は全氏子の熱意の結晶により、昭和45年に竣工している。 主祭神は幡生神、大田神、大■媛神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理姫尊であり、大物主命を祭神とする金刀比羅社が境内社としてある。 社頭掲示板 |
幡生神社 釜谷さんと呼ばれている。延喜式内社。養老2年泰澄の創建にかかり、天平宝宇2年、淳仁天皇が本社に国幣を捧げられてより、爾来360年間、奉幣の儀が行われた。文治5年富樫泰家が深く崇敬して神領を寄進し、社殿堂塔を再建した。前田利常が幡生の総社・呉服明神・加賀絹の守護神として、深く崇敬したので、小松の機織業の参拝が多くなった。明治15年郷社に昇格。同40年稲荷神社と白山神社を合併。昭和3年県社に昇格。同45年社殿改築。 石川県神社庁 |