寛弘5年(1008)に花山法皇の遺勅によつて、松ケ中原の八幡宮を小松多太神社に合祀し、それより多太八幡の称が起つたという。 神社の西側にもと今江潟があつたが、昭和の埋めたてによつて今はない。 寿永2年(1183)の源平の戦いで戦死した斉藤実盛の兜鎧の大袖等を木曽義仲が奉納。重要文化財として保存されている。 |
由緒 多太神社由緒 当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。 社縁起によると、六世紀初め、武烈天皇の5年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ平安時代初期には延喜式内社に列している。 寛弘5年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。 寿永2年(1183)源平合戦のとき、木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。 室町時代初めの応永21年(1414)には時衆第十四世大空上人が実盛の兜を供養された以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。 大正元年に本殿後方から発掘された8500余枚に及ぶ古銭は、室町中期の十五世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである。 慶長5年(1600)小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて五丁八反二四三歩を寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永17年(1640)に社地を寄進し慶安2年(1649)の制札には能美郡全体の総社に制定し能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている。 元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道の途次本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し神領や数々の社宝を奉納になった。 明治15年に県社に指定された。 歴代の宮司はその人を得、よく精励し神社の守りにあたってきた、由緒と歴史を持ち、広く人々の尊信を受けてきた本社の神威はいよいよ輝きを加えている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
多太神社 寿永2年(1183)5月、倶利伽羅峠の一戦で大敗を喫した平維盛を総帥とする平家の大軍は、加賀の篠原に再陣して抵抗を試みたが、木曾義仲軍の前に総崩れとなり都に逃走した。 この時、踏みとどまって白髪を黒く染め、若者に伍して奮戦し、手塚光盛に討たれた、斎藤別当実盛は73歳であったと伝えられる。討ち取った首を池(現在の首洗池)で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変った。実盛はかつて幼少の義仲を救った命の恩人で、義仲は実盛の首級と涙の対面をし、懇ろに弔い、その着具であった甲冑を多太神社に納めた。この甲、大袖、臑当は重要文化財に指定されている。 芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが元禄2年(1698)7月25日(陽暦9月8日)であった。7月27日小松を出発して山中温泉に向かう時に再び多太神社に詣で、それぞれ次ぎの句を奉納した。 あなむざん甲の下のきりぎりす 芭蕉 幾秋か甲にきへぬ鬢(びん)の霜 曾良 くさずりのうら珍しや秋の風 北枝 http://www.ishikawa-c.ed.jp/basyou/komatsu/tada/tada.htm |
多太神社 当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると、6世紀初め、武烈天皇の5年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ平安時代初期には延喜式内社に列している。寛弘5年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。寿永2年(1183)源平合戦のとき、木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。室町時代初めの応永21年(1414)には時衆第14世大空上人が実盛の兜を供養された以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。大正元年に本殿後方から発掘された8千5百余枚に及ぶ古銭は、室町中期の15世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである。慶長5年(1600)小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて5丁8反243歩を寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永17年(1640)に社地を寄進し慶安2年(1649)の制札には能美郡全体の総社に制定し能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている。元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道の途次本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し神領や数々の社宝を奉納になった。明治15年に県社に指定された。歴代の宮司はその人を得、よく精励し神社の守りにあたってきた、由緒と歴史を持ち、広く人々の尊信を受けてきた本社の神威はいよいよ輝きを加えている。 石川県神社庁 |
多太神社 多太神社由緒: 当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると 六世紀初め武烈天皇の5年に男大跡王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ、平安時代初期には延喜式内社に列している。寛弘5年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。 寿永2年(1183)源平合戦のとき木曽義仲が本社に詣で、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。 室町時代初めの応永21年(1414)には、時衆第十四世大空上人が実盛の兜を供養された。 以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いて いる。 大正元年に本殿後方から発掘された八千五百余枚に及ぶ古銭は 室町中期の十五世 紀初めに埋納されたもので 当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである。 慶長5年(1600)、小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され、三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて五丁八反二四三歩を寄進されたことが記録にある。加賀三代藩主前田利常は、寛永17年(1640)に社地を寄進し、慶安2年(1649)の制札には、能美郡全体の総社に制定し、能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている。 元禄2年(1689)松尾芭蕉が、奥の細道の途次本社に詣で、実盛の兜によせて感慨の句を捧げている。歴代の加賀藩主及び為政者はいたく本社を崇敬し、神領や数々の社宝を奉納になった。 明治15年に県社に指定された。 社頭石碑 |