広大な社叢はキタノモリあるいは神ケ森(じんがもり)ともよばれてきた。 境内には古来雑草が生じないとされている。伝承によれば、延宝年間(1673〜81)に瀧川家四代の社守六兵衛が淵に入つて禊をしていた時、淵に棲む大亀が襲ったので捕えて殺そうとした。この時大亀が末代に至るまで境内の草を取つて生ぜしめないと誓約したので放免した。それより境内には一草も生じないのだという。 |
気多御子神社 気多御子神社由来碑 本社の御祭神は往昔越の国の御経営に従事された大己貴命(気多大神)を主祭神とし、さらに菊理媛神(白山大神)、天照皇大神(神明大神)を加えた三柱である。 本社は従前「神明宮」と称せられ、上古より気多の神奈備に鎮座され、歴代の天皇が厚く御崇敬なされ平安時代初期文徳天皇の頃仁寿元年に正六位を叙せられた。 その後数度の御昇叙を経て延喜の制国幣小社(延喜式内社)に列せられた。 長保、寛弘の頃は花山天皇の御崇敬が特に厚く本社神護寺を祈願所と定められ鎮護国家の道場として佛生寺と御命名せられた。 正治元年(鎌倉初期)以後三百八十年間中院家がこの地の領主として神宝、幣帛を奉納し、社殿を修理し瑞垣を造り以後社頭は常に盛大であり、明応9年(室町時代)後土御門天皇より御神階最高の正一位を賜った。 しかしその後戦国の世となり一向一揆等の兵火や大火により神社の神宝、古文書等の多くが散逸した。 以後、加賀藩主前田利家公始め累代藩主の御崇敬が厚く三代利常公には社殿の再建、神領の寄進等特別の保護を受け、社守には加賀藩士滝川玄蕃左門氏およびその子孫が御奉仕されていた。 明治12年には気多御子神社と改め大正14年郷社に昇格。 境内末社の菅原社は平安中期の延長年間の創建と伝えられ勧学の神として往昔より崇敬されている。 尚。当地は額田の郷と称されていたが永正・永禄(室町中期)の頃額田の庄と改められその後何時しか額見と称せられた。 又集落も神社北東側の串境まであり150戸余りの大集落であったが安政4年(江戸末期)の大火で村民は離散し15戸程度となり、その後一世紀余の間に文化、経済共に発展し恵まれた住みよい環境で新しい町として繁栄の途をたどっている。 宮司 藤峰雅行 社頭石碑 |
気多御子神社 延喜の制国幣小社に列せられ、額見の神明宮とも称せられた。後土御門天皇明応9年正一位を授けらる。天正11年加賀藩前田利家社殿を修理し、神田を奉献。明治12年現社名に改称。大正14年郷社に列せられ、同時に神饌幣帛料供進神社に指定。また花山法皇御立寄所とも伝えられている。 石川県神社庁 |