景行天皇の御代、橋立の開祖・石巣宿彌尊が勧請。 往古の社地は出水ノ澗と称する海岸に鎭座していたが、波濤の爲に崩欠し、中古海辺の出水山ヘ遷座した。その地を御山(ミヤマ)と称した。明治5年1月、今の地字山崎又の名を蛭場山(ヒルバノヤマ)に遷座した。 加賀市橋立町は、かつて北前船の船主、船乗りが多く住んでいた港町である。 北前船は江戸から明治時代にかけて北海道と大阪を結ぶ西廻り航路に就航し、日本海貿易の主役であった。一航海千両ともいわれ、多くの長者を生みました。今の金額に換算するとざっと一航海1億円。全盛期には中央の雑誌に「日本一の富豪村」と紹介されたこともあり、いまでも町には船主邸、船乗り邸など当時の北前船主の豪壮な生活を偲ばせる建物が数多く残っており、歴史的な町並みや文化を伝えている。 |
出水神社 出水神社由来記 加賀国江沼郷橋立村由来記 そもそも加賀国江沼郡橋立村の由来記は、昌泰申年(西暦900年)の写書が大破損に付き、ここに再度写し残す。御言い伝えの伝記に、三千大世界の須弥山は南闡浮提の須弥の世界をいう。国造作り始めの事をあらまし記し置くものなり。 加賀国江沼郡橋立村の御開祖は石巣宿彌尊なり。人皇第10代景行天皇の17年に、大漁の神と奉斎する(ひんば)の背に乗り、この浜に御上りありて洞家を掘りて御住家とまします。御子に石綱、御娘に岸女あり。(ひんば)を洞中に飼い置くに、家に海猟ありて子孫繁盛す。あまねく天の下の海猟の元とす。人皇第49代光仁天皇の宝亀元庚戌の年(西暦770年)の9月7日に氏神を奉斎する。その頃は茅屋14軒、男女46人あり。氏神の尊は天津日高子穂々出見尊、先神は御神の苗裔の石土毘古尊、上筒男、中筒男、底筒男、いずれも海水神なり。天通岐志、国通岐志、天津日高神、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津神、大綿津見神、豊玉毘賣神は出見命の御后の神なり。玉依毘賣神、宇都志日金折命、海犬養、安曇犬飼尊、いずれも海水神なり。氏神の相殿に応神天皇を祭神とするは、人皇代は不詳。清和天皇の御頃に大安寺僧の行基法師は宇佐に参詣し、霊告ありて山城国男山正八幡の宮の奉斎者なり。村方の地形は、北の子に水気あり。水溢るる象あり。南の午は火性に水火既済の象あり。水は和合せず、水木退気あれども、返事ありて生気向かい。吉方の方位なり。総て建家構等押門尖り。午方位に水気置く事なかれ。福門尖にて、水気置く事あり。天門尖りに金置く事あるべし。氏神社より南二町の小塚は(ひんば)大漁の塚なり。応安年中より永正年間(西暦1370〜1520年)に天下は飢え死に、ゆえにその後より田畑開かれたり。永正年間は村方大いに衰えたり。文禄年間(西暦1592〜95年)頃より益々繁盛すべし。いずれも氏神を信仰すべし。村方の盛衰の写しのまま記し置くものなり。 石巣宿彌四十五代後胤 橋立の里 吉弥 花押 (橋立出水神社伝来 橋立村由来記より) 平成8年1月吉日 建立 社頭石碑 |
出水神社 延喜式内社にあてられる古社。橋立の開祖石巣宿弥が景行天皇の17年に、大漁の神として泉の潤に奉斎したに始まる。光仁天皇の宝亀元庚戌年9月7日に石巣宿弥を氏神として合祀、出水の社と称す。その後社地は海中に没したため現在地の八幡社へ合祀。慶応2年2月蛭場山を開いて鎮守再建に着工し、明治4年西の宮見山の八幡社と東の宮番場山の薬師堂(国玉社)を遷座合祀、出水神社と改称。同16年郷社に昇格。同41年無格社稲荷神社を合祀する。古来漁業海運業の神として全国各地の尊崇篤く寄進物が多い。 石川県神社庁 |