本来は稲霊を祀る神社であり、そこから「穂の宮」の名称が起こったと思われる。 |
忌浪神社 忌波神社と手洗鉢の由来 上古王朝時代既に忌波郷あり。ゆなみ或いはいなみと呼ぶ。「い」も「ゆ」も清潔神聖の意なり、続日本後記に嘉祥2年(1082)10月庚寅加賀国忌波神に従五位下を授け奉る とある。祭神は倉穂魂神で「穂の宮」ともよぶ。穂の神称を祀りしゆえなり。一説には江沼郡が沼たる昔此の社の辺へ船着す、よって「帆の宮」と称し地を忌波という。ともかく上古より一粒万倍豊年万作の神として崇敬されている。 この神社の東方300mに寺田という地あり、そこにあって宝塔石とよばれていたものがこの手洗鉢なり。奈良時代より栄えた大寺の五重の塔の心礎なり。この大寺はいくたびか変遷して松勝光寺、加賀打越勝光寺として存す。 昔この心礎石を運ばんとして動かしたがこの地まで来て押せど引けども動ぜず当神社の手洗鉢としたのが由来なり。 昭和51年11月25日 社頭掲示板 |
忌浪神社 崇神天皇ノ御代大毘古命八十伴雄ヲ率イテ高志ノ國ニ到リ給ヒシ時、年穀豊ナラス、命自ラ倉稻魂命ヲ祭リテ祈年シ給ヘリ、是當社ノ創始ナリト傳フ即、嘉祥2年10月從五位下ニ叙セラレ、清和天皇貞観元年従五位上ニ昇叙セラル(続日本記)、天平神護元年、天安2年、天徳3年ニ社殿造替等アリシ由緒深キ當國ノ古社ナリシモ、壽永2年平家ノ軍茲ニ屯セシヲ似テ遂ニ兵火ニ罹リ、社殿宝物悉ク鳥有ニ帰シ同4年再建セリ、又大聖寺藩主ノ崇敬淺カラサルヲ似テ豊年毎ニ郡奉行ヲシテ奉幣セシメ郡内一統ノ角カノ奉納アリ、明治5年11月加賀國第二十一区第二十二区郷社ニ、同30年1月9日縣社ニ列シ、同41年4月8日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル 神社明細帳 |
忌浪神社 延喜式内社。穂の宮とも称す。嘉祥2年従五位下貞観元年従五位に叙せられる。寿永3年平家の兵に罹り社殿宝物悉く鳥有に帰し同4年再建す。大聖寺藩主の崇敬が篤く、豊年毎に奉幣・郡内一統の角力奉納がある。明治5年郷社に、同30年県社に列格、同41年幣帛供進神社に指定される。 石川県神社庁 |