能義郡は遅くも九世紀後半にはすでに意宇郡から分かれて成立した(延喜式の成立とほぼ同時期)ところが能義郡の式内社のうち、野城神社その他が旧来の意宇郡の中に残されたままであり、当社一社のみが新設能義郡に記載され、なお出雲国の最後尾に記載されているのには何らかの理由が在るのか不詳。 「天穂日命神社」比定社には他に、天穂日命を祖とする出雲国造の代替わりに参拝・奉幣があったといわれる「能義神社」があるが、正徳年間(1711〜1716)と明治初期の2回にわたり論社争いがあり、この社・吉佐村の国津大明神(現支布佐神社)に軍配が上がっている。 |