創立以来、社地移転或は統廃合の事もなく現在に及んでいるという。 |
由緒 元郷社 海潮神社御由緒 御祭神 宇能活比古命 当社の創立は遼遠にして不詳なりといえども、御祭神のことは「出雲風土記」に見え、「延喜式」には神祇官社として「国幣小社」の列に入り、「出雲風土記」に得塩社として載せられている。 それより降って「出雲国式社考」、或は「雲陽誌」等には大森大明神と称され、天正9年11月造営の棟札があり、以来16回の社殿造営の記録がある。武将武門を始め一般の崇敬者篤く中でも当地地頭職の三笠弾正はこの社を祈願社として社領社地の寄進をし、祈願神事に用ひし舞獅子頭を今に社蔵している。 明治維新迄は年々お札下げにて社領米の寄進が続いたが維新後廃止された。 然るに王政復古により明治5年1月郷社の社格に列せられ、同41年神饌幣帛供進の神社に指定された。 創立以来千数百年社地社殿の移転・合祀等更になく現在に至る由緒正しい神社である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
走田神社 延喜式内社 元郷社 海潮神社御由緒 御祭神 宇能治比古命 当社の創立年代は、遼遠にして知る事はできないが、延喜式制に神祇官社に登録され、国幣小社に列格されている。此の事から思図れば、延喜の式制以前の創立であることは間違いなく、千数百年以前と想像される。 よって、明治33年11月氏子中相図り千年祭を斎行し、碑文を刻み記念碑を建立して後世に遺した。 出雲国風土記(約1270年前)に、宇能治比古命北の方海潮を押し上げて御祖須我弥命を漂はす、此の海潮此の地に至る故に此の地を得塩というとあり、命を祀り、得塩社とした。 神亀3年地名改正の令により、此の地を海潮と改められ、社名も海潮神社に改められた。 降って、出雲式社考或いは雲陽誌には大森大明神と称し、天正9年11月(約420年前)造営の棟札があり、以後17回の社殿造営の記録がある。 古来武将武門の崇敬篤く、中世の項、此の海潮の地を領した尼子氏の重臣牛尾弾正忠は、三笠城に拠り当社を祈願社と定め、社地社領の寄進をし、祈願神事に用いたと伝える獅子頭今も社蔵している。 明治維新までは、年々御札下げにて社領の寄進があったが、王政復古を期して廃止された。 明治5年1月新制度により郷社に列格、郡政下にあっては例大祭に郡長の参向が続き、明治・大正・昭和の初期までは大森さんと称して親しまれ、遠近を問わず崇敬されてきた。 創立以来千数百年、社地社殿等の移転もなく今日に至っている由緒ある神社である。 境内社 稲荷神社 恵美須社 八幡宮 高平社 社日社 総荒神社 鷺神社 三大祭 例大祭 10月20日 祈年祭 3月22日 新嘗祭 11月27日 平成13年10月20日 宮司 新田有一 識 社頭掲示板 |