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出雲国風土記の「神原社」に相当する。 ここは大穴持命が神御財=御神宝を積み置かれた所であるとされ、古事記の「出雲国神宝検校」の舞台となったところと言われている。 往古は今の赤川の対岸、才明寺の東南に鎮座していたが、低地であるので、西南対岸の神原神社古墳上に移された。 この古墳は斐伊川の支流赤川の左岸堤防に接していたため昭和47年赤川改修按張工事に伴なひ、約50m南方に社殿と共に移転された。 この時石室から景初3年銘の三角縁神獣鏡が出てきて、大国主神の御財(みたから)ではないかと大騒ぎになり、それ以後全国的に注目され続けている。 |
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神原神社 大原郡加茂町大字神原 字松井原千四百参拾六番地 御祭神 大国主命 磐筒男命 磐筒女命 当社ハ出雲風土記二在神祇官社トシテ神原社ト見工 延喜式二神原神社ト見ユル社是ナリ同書二神原郷ハ郡家正北九里古老博へ云フ天下造ラシシ大神ノ御財積置キ給フ処則チ神財郷ト謂フ可キヲ今人猶誤テ神原郷ト云フノミト見ユ是當社ノ淵源ニシテ即チ大國主神ヲ祀ル所以ナリ而シテ磐筒男命磐筒女命ハ日本書紀一書二伊弊諾尊剣ヲ抜キテ軻遇突智ヲ斬ル(中略)時二其ノ血激リ越エテ天ノ八十河中二在ル五百箇磐石ヲ染ム而シテ因テ化シテ神ト成ル號ケテ磐裂神ト云フ次二根裂神児磐筒男磐筒女神ト見ユル神ニシテ千早振神世二天下造ラシシ大神ノ御宝及ヒ諸々ノ神ノ御財二真種ノ甘美鏡押羽振甘美御神ノ底宝ヲモ積ミ調へ給ヒ天照大神詔給ヒテ此ノ神宝ノ司トシテ天ノ八十河二坐ス磐筒男命磐筒女命ヲ遣シ給ヒシナリト傅フ 又速玉男命事解男命ヲモ遣ハシ給ヒ神在代宝原二垣ヲ巡ラシ居給ヒテ代宝垣原ト云ヒ時ノ人上ノ原トモ云フ 此処二松井淵ト云フ淵アリ東西八十歩周リ百六十七歩南北短ク東西長シ此ノ淵ハ是レ神明ノ御淵月次日読第二ニハ御顯向移シ給フ神ノ池ナリ故ニ人ノ渡ル無ク人ノ汚レ入ル無シ如何ナル乾洪水ニモ絶ユル無ク水深ク明カニシテ瞼岨ノ淵ナリ俗二神長池ト云フ則チ松井淵ト云フベシ 今猶誤テ之ヲ名ツク往古ハ神原松井大明トモ称シ奉ルナリ 當時ハ松井淵土手ノ下ニナリ之レ無ク此処ヲ松井原輪ト云フ松井淵ハ今社頭二淵ノ形ヲ移シアリ歌二日ク 八雲道ヤ松井ノ淵ノ清ケレバ 八百萬代ノ神ノ御手洗水 日本書紀崇神天皇ノ條二日ク六十年秋七月丙申朔己酉群神二詔シテ日ク武日照命天ヨリ特チ來レル神宝出雲ノ大神宮二藏ム是ヲ見マ欲シ則チ矢田部造ノ遠祖武諸隈ヲ遣シテ献ラシム是時二當ツテ出雲臣ノ遠祖出雲振根神宝ヲ主レリ 是二筑紫國二往テ遇ハス其弟飯入根則チ皇命ヲ被リテ神宝ヲ以テ弟甘美韓日狡ト子鶴濡淳トヲ付ケテ貢リ上ク 既ニシテ出雲振根筑紫ヨリ還リ來リテ神宝ヲ朝廷二献リツト聞キテ其弟飯入根ヲ責メテ日ク 敷日ハ當二待ツベシ何ヲ恐ミテカ軒ク神宝ヲ許シシト 是ヲ以テ既二年月ヲ経レトモ猶恨盆ヲ懐キテ弟ヲ殺サムト云フ志アリ価テ弟ヲ欺キテ日ク頃者止屋淵二多二■生ヒタリ願クハ共二行キテ見マ欲シト則チ兄二随ヒテ往ク 是ヨリ先兄密カニ木刀ヲ作リ形眞刀二似タリ當時自ラ之ヲ個ケリ弟ハ眞刀ヲ佩ケリ共二淵ノ頭二到リテ兄弟二謂テ日ク淵ノ水清冷シ願クハ遊沐ミムト欲フト 弟兄ノ言二従テ各々佩カセル刀ヲ解キテ淵ノ邊二置キテ水中二沐ム 乃チ兄先ツ陸二上テ弟ノ眞刀ヲ取リ自ラ佩ク後二弟驚キテ兄ノ木刀ヲ取リテ共二相撃ツ 弟木刀ヲ抜クコトヲ得ス兄弟飯入根ヲ撃チテ殺シツ 故時ノ人歌ツテ日ク 椰句毛多菟伊頭毛多鶏流餓波鶏流多知菟頭羅佐波磨枳佐微那乱珂波礼 是二於テ甘美韓日挾鶴濡淳朝廷二参向シテ曲カニ其ノ状ヲ奏ス 則チ吉備津彦ト武浮河別トヲ遣シテ以テ出雲振根ヲ誅ス故二出雲臣等是事二畏レテ大神ヲ祭ラサルコト間有リ 時二丹波氷上ノ人名ハ氷香戸邊皇太子活目尊二啓シテ日ク 已カ子小児有リ自然二言フ玉■鎭石出雲人祭ル真種ノ甘美鏡押羽振甘美御神ノ底宝御宝主山河ノ水泳御魂静メ掛ケヨ甘美御神ノ底宝御宝主也ト此レ小児ノ言二似ス若ハ託言ナランカト是二於テ皇太子天皇二奏ス則チ勅シテ祭ラシメタマフ 又同書垂仁天皇ノ條二廿六年秋八月戌寅朔庚辰天皇物部十千根大連二勅シテ日ク屡々使者ヲ出雲國二遣シテ其國ノ神宝ヲ検校セシムト雖モ分明シク申言スル者無シ汝親ラ出雲二行リテ宜ク検校シ定ムヘシト則チ十千根大連神宝ヲ校定シテ分明二奏言ス乃テ神宝ヲ掌ラシム 以上日本書紀二見ユルニ史実二於ケル神宝ハ當然當神原神社ノ神宝ヲモ含ムモノナリシナルヘシ 神原郷内二大舎押山小舎押山ト云フ有リ東西二封時シテ聾工立ツ古老ノ簿二依レハ大舎押山ハ兄振根ノ領小舎押山ハ弟飯入根ノ領ニテ兄弟互二押領シテ相争フノ事アリト云フ兄振根ノ露廟ハ神原郷内兄塚是ナリ弟飯入根ノ廟所ハ全郷内宿米塚是ナリ大舎押社小舎押杜両社世ノ治乱ニテ社殿退転スト 又古老ノ博ニヨレハ十月十日八百萬神達斯ノ原二來臨シ給ヒ往古ハ御供百手ノ神事モ有リシカ何代絶エタリシテ聾工立ツ古老ノ博二依レハ大舎押山ハ兄振根ノ領小舎押山ハ弟飯入根ノ領ニテ兄弟互二押領シテ相争フノ事アリト云フ兄振根ノ露廟ハ神原郷内兄塚是ナリ 弟飯入根ノ廟所ハ全郷内宿米塚是ナリ大舎押社小舎押社両社世ノ治乱ニテ杜殿退転スト 又古老ノ博ニヨレハ十月十日八百萬神達斯ノ原二來臨シ給ヒ往古ハ御供百手ノ神事モ有リシカ何代絶エタリシヲ知ラス同月廿一日諸神佐陀ノ社へ参集シ給ヒ廿六日又神原二帰リ給ヘリ故二此ノ地神土ノ風ナリ里人此ノ間ヲ上ノ忌下ノ忌ト云フ古歌二詠人不知 神有ノ月日ニナレハ諸神ノ 時雨シクルル神原ノ里 斯テ當社ハ屋裏郷屋代郷神原郷三郷ノ惣氏神社トシテ世人ノ尊崇最モ厚ク祭典儀式太タ盛ナリキ當時屋裏郷ヨリノ参道タリシ松井原ノ参道ハ當時ノ鳥居其儘残リ漸次埋リテ今ハ僅二笠石ヲ見ルノミ(天保ノ頃ハ立石田中ニテ鍬ニカカリシコトアリト) 爾後此ノ神原神社ハ更二神宮寺ヲ付今ノ宮庭ヲ去ル一町許リノ地二真言院ト號ケテ該神宮寺アリシモ近年二至リ之ヲ失ヒ僅二一小堂宇ヲ存スルノミ 古博二日ク嘗テ(年代不詳)大原郡斐伊社ヲ武藏國二氷川神社トシテ勧請セラルル二際リ當社二伝ハル出雲神宝十握剣ヲ以テ其ノ御神霊ノ御霊代二奉献ス而シテ其ノ十握剣ヲ模写セシメ永ク當社ノ神宝トセラル今ノ宝剣即チ是ナリト因二記ス十握剣模写ノ宝剣ハ現存セシ長サ式尺壱寸白鞘ニテヒノカハ上ヤマトノ住人久次(カタカナ書)ノ銘アリシモノ或ハ是ナラント爾ルニ其ノ宝剣ハ安政四年九月ノ度時ノ祠掌山本武凌ノ頃氏子惣代多々納光次郎日野恵藏勝部四郎右衛門速水儀一郎中林健藏及戸長中林祐之助等連書ノ神原神社宝物古器物古文書目録二価テ顕著タリ 又現今ノ氏子中ニモ数多其ノ宝剣ヲ拝観セシモノアリシト雖モ爾後藪次神職ノ交替アリ殊二前杜掌物故ノ現今其ノ所在尚未タ分明ナラス 明治四年十二月村杜二列セラレ明治三十九年四月勅令第九十六號ニヨリ明治四十四年九月廿日島根縣告示第四百九號ヲ以テ神饌幣巾料ヲ供進スルコトヲ得ヘキ神社二指定セラル この由緒書は大正年代初期巻物の写しである。 由緒書 |
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神原神社 神原神社古墳の竪穴式石室(移築) ここにある石室は、もと現在の神社の北側にあった神原神社古墳の埋葬施設を移築したものである。古墳は昭和47年(1972年)斐伊川の支流、赤川の拡幅事業によつて発掘調査され、石室から景初3年(239年)の銘文を持つ銅鏡が出土している。この年号は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送り、銅鏡百枚を授かった年であり、卑弥呼の鏡を出土した古墳として全国に知られる事となった。 古墳の墳丘は復元規模29×25m、高さ5m以上の大形方墳で、内部の石室はここに見るように多数の板石を積んで造られた竪穴式石室である。この石室は内法で長さ5.8m、幅1m前後、高さ1.4mで、床には粘土が敷かれ、その上に長さ5.2mの割竹形木棺が置かれた痕跡が残っていた。また、これらの下には排水溝や、朱と土器5個を納めた長方形の穴が発見されている。 棺内には多量の朱が認められ、三角縁神獣鏡1面と武器や農耕具などの多量の鉄製品(素環頭太刀1本、剣1本、鏃36本、鍬先1点、鎌1点、鏨1点、斧2点、ヤリガンナ1点、錐2点、縫針2点が、棺外からは鉄剣1本が出土している。また、石室天井石の上面からは祭祀用と考えられる壷やそれを載せる器台の破片が多数出土している。 この古墳は古墳時代初期の典型的な特徴を備えており、山陰で最も古いものと考えられている。銅鏡や豊富な鉄製品を入手すことができた首長がこの地域に存在していたことは、出雲の古墳時代を語るうえで極めて重要である。また、南側丘陵にはこの古墳に前後する時期の小墳が多数存在し、そのひとつから県内初の破鏡が出土し注目されている。なお、出土品は昭和55年6月9日に国の重要文化財に指定されている。 平成12年(2000年)3月 島根県教育委員会 加茂町教育委員会 社頭掲示板 |