出雲国風土記の「三沢社」に相当する。 この郷にある沢の水をもつて阿遅須伎高日子命が潔齋の沐浴をされ、これによつて身心の障害を去り立派に成人されたので、出雲国造の神賀詞奏上に先だつて行なわれる潔齋の儀には、この沢の水を用いることとなつた。このような意義深い御沢のある地なので三沢という地名となつたと伝えている。 この沢は、神社の西方、三沢城趾要害山の山頂近くにある「刀研池」がそれであると考えられる。 |
三沢池 三沢池・出雲国風土記所載 大国主命の御子阿遅須枳高日子(根)命は、顎ひげがのびる年令になつても泣いてばかりでことばも話されなかつた。御親神は御子を船に乗せ国々を巡ってあやされたが、それでも泣きやまれなかつた。 そこで御親神は「どうか御子が泣くわけを夢の中で教えて下さい」と一心に祈られた。すると不思議なことにその夜御子が口を利くようになつた夢を見られた。目が覚めてから御子に尋ねられると、御子は初めて「御津」と言われた。そして石の多い川を渡り坂を登った所で止まり「ここです」と申された。御子はこの綺麗な沢て身を清めてすつかり健康で立派な神となられた。その場所がこの三沢池と伝えられている。 この故事から出雲国造が新任の際、朝廷へ神賀詞(お祝い)を奏上しに上京する時は、この水を汲んで禊初めの水とされた。 神亀3年(726)御津の字を三沢と改めた。 阿遅須枳高日子(根)命はこの伝承により、当地の氏神として三沢神社に祭られている。 三沢の地名もこの伝承によるとされ、三沢池の水は現在「若返の霊水」として多くの人々に愛飲されている。 社頭掲示板 |