古記録に、40代天武、54代仁明、55代文徳帝の時、朝廷より幣帛が奉られ、仁明天皇嘉祥4年(851)神階正六位に叙せられたとある。 永正16年(1519)三沢為国のとき、尼子経久に攻略され、大呂城、竹崎城、船通寺、観音寺いずれも兵火に罹(かか)り「上宮伊我多気神社」も消失した。 境内には素戔嗚尊と子神の五十猛命が乗ってきた船が石化したものだと伝えられている「岩船石」がある。 また社殿裏山に五十猛の墳墓(長円墳に五十猛尊御陵地の石碑)がある。 |
鬼神神社 御祭神は、霊力絶大で、「威武(いたける)」の神、邪気、怨霊、折伏(せつふく)の神として鬼神伊我武大明神と称えた、とあり、大永年間、三沢為忠、その子為国、永禄年間三沢為清、尼子晴久、寛永年間堀尾忠晴等が建立寄進した。 慶長九龍集甲辰菊月吉祥日、出雲国造千家元勝撰「出雲国仁多郡小国里鬼神大明神縁起」1巻(1601)に、出雲国仁多郡横田荘小国里上宮船燈山鬼神伊我多気大明神者祭祀素盞鳴(すさのうの)尊(みこと)、 五十猛(いそたけるの)神也延喜式云五十猛(いそたけるの)陵地伊我多気社是也千然中世錯乱社号単称鬼神大明神也抑太古素盞鳴(すさのうの)尊(みこと)師其子五十猛(いそたけるの)神降到新羅国の挙白此地吾不欲居遂以埴土作舟乗之東渡到出雲国簸川上所在鳥上峯其舟成岩千今在社前止庶民崇敬岩船大明神也、焉初五十猛(いそたけるの)神天降之時多乃樹種而下然不殖韓地蓋以持帰遂始自築紫凡大八州国之内莫不播殖而青山焉一宮記白大己貴命兄五十猛(いそたけるの)神也 云々 平成10年8月7日 鬼神神社社務所 社頭掲示板 |
岩船大明神 スサノオの埴船が岩化した岩船大明神 スサノオとイソタケルが新羅の国から埴船(土でつくった船)に乗って船通山を越え、ここに降り立ちました。 この「岩船大明神」は、その時の埴船が岩化したもので、地上に出ているのは2m程ですが、地下は数mにおよび、誰一人として動かすことはできないといわれています。 また、ここ鬼神神社の裏山には。イソタケルの御陵墓とされる墳墓があり、「御陵さん」と地元の人は呼んでいます。 かって、ここでは火の玉が多くみられ、それは、御陵さんに舞い降りては船通山に飛んでいったといいます。地元民は、ヤマタノオロチの怨霊「龍燈(頭)」と考え恐れました。 これを鎮めるためにはじまったとする「龍燈(頭)祭」が今なお続けられています。 社頭掲示板 |