出雲国風土記の「伊我多気社」に相当する。 創建は垂仁天皇の御代、御神像2体を安置したのが始まりと伝えられている。 天文20年(1551)に横田郷を尼子氏が制圧し、藤ヶ瀬城下の鎮守となった代官森脇家真と五反田屋の手によって、現在地へ遷した。 中世この地域は石清水八幡宮の領有するところとなり、横田八幡宮が勧請されている。保元三(1158)年出雲八別宮の一つとして横田別宮となるように、伊賀多気神社はかえりみられることのない時代があった。 戦国時代の兵火により火災で社殿や記録が焼失し、当初の鎮座地も不詳、中世までは現在より川上の五反田の東辺からそう遠くない所にあったと言う。天文年間(1532〜1555年)に代官となった森脇家真が再興した際に現在地に遷座し藤ヶ瀬城下の鎮守となっている。明治の神仏分離令を経て社号を「五十猛神社」から「伊賀多気神社」に改め郷社に列した。 |
由緒 伊賀多気神社 伊賀多気神社は垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式所載の古社であり、旧郷社である。 出雲風土記に神祗官社とせられている。 御鎮座地島根県仁多郡横田町角は、古代横田庄と申し、仙洞院御領地であった。 御祭神は五十猛命であり、合殿に父神素盞鳴尊と大己貴命を合わせ祀る。五十猛命は父神を助けて大蛇退治をなされた神で、父神と共に朝鮮新羅国曾尸茂梨(そしもり)より樹木の種子を持ち帰りになられ、大蛇の荒らした山野にその種子を播き、治山・治水の実あげられると共に、日本全国に植樹・育林を奨められたので、山林の守護神・樹木の神様として、古くは朝廷並びに林業関係者の崇敬が厚かった。 祭日 祈年祭 4月8日 例大祭 11月8日 新嘗祭 12月8日 御社殿 御本殿 大社造 間口二間 奥行二間 通 殿 切妻造 間口一間半 奥行一間半 拝 殿 入母屋造 間口五間半 奥行二間 随神門 楽殿 社宝 隋神立像二躰(県文化財) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
伊賀多気神社 伊賀多気神社略記 伊賀多氣神社は、垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式内の古社にして、出雲風土記に神祇官社・延喜之制・小社とせられている。御鎮座地は古代横田庄と云い仙洞院御料地であった。然し乍ら戦國時代の戦火に罹り御社殿・社家共に炎上し古資料を失ったことは誠に残念てある。 御主祭神は、素盞鳴尊の御子神五十猛命である。相殿として素盞鳴尊大己貴命を合せ一祀っている。父神素盞鳴尊が姉神天照皇大神のおいかりにふれられ、高天原を逐はれ朝鮮の新羅國曽尸茂梨の地に降られた時、父神と共に降られ父神をたすけられた。後に父神が本土へお帰りの折お供をし五十猛(大田市)の浦へ着かれた。その時命は曽尸茂梨より樹木の種子をお特ち帰りになった。父神と共に簸乃川上にのぼられ、稲田の里にて稲田の地頭・脚摩乳、妻の摩乳より「オロチ」の被害を聞かれ、父神と共に烏髪山(舟通山)に登られ、オロチ族の鉄穴流し(鉄の原料である砂鉄を採るため山を崩して流す)のため四方の山々が禿山となっており、これでは雨期に洪水となり人々が難澁するので・命が、父神はオロチ族に斯様なことをしない様直接談判をして下さい(オロチ退治)。私は烏髪山から乾の方角に当る地にとどまり、住民と共に樹木の苗を育て荒れ山に植樹して治山治水を行いますと申された。その地が御当杜御鎭座地角村である。命は住民に「杉及び楠」は浮舟に、「桧木」は御殿を作れ、「マキ」の木は火をたいて物を焼くのに用いよと教えられた。その後、命は日本國中に植樹造林をおすすめになられた。このため朝廷から国土経営の神として遇せられ、全国の人々から林業の守護神として崇められている。 御社宝 御祭日 木造 随神立像 二躯 木造 獅子頭 一頭 共に県文化財 御祭日 祈年祭 4月8日 例大祭 11月8日 新嘗祭 12月8日 社頭掲示板 |
伊賀多気神社 伊賀多気神社の木造随身立像(県指定文化財) 伊賀多気神社は、出雲国風土記(733年)に「伊我多気神社」として登場し、神祗官社(中央の神祗官の神名帳に登録された社)に記載されています。当時は神祗令によって定められた祭祀を行う延喜式内社でした。延喜式内社は、仁多郡内には伊賀多気神社の他三沢に三沢社があっただけで、この他に8社ありましたが、いづれも出雲の国庁の神名帳に登録されるのみで、官社に準じて祭祀を行う社でした。 この伊賀多気神社は、もともと現在の五反田の東辺からそう遠くない所にあったと考えられます。天文年間(1532〜1555年)に横田郷を尼子氏が制圧した頃から、現横田の町並が造られはじめましたが、五反田から移って町作りの中心となった「五反田屋」の手によって、ここの氏神として現在地に遷され再興されています。 また伊賀多気神社には、島根県指定文化財の2躯の木造随身立像(鎌倉後期作)が所蔵されています。像高は目をいからせた瞋目(しんもく)像が113cm、笑みを浮かべる微笑像が111cmで両像ともヒノキの一木彫成で、しかも木心を有するままの丸彫りとなっています。巾子(こじ)冠をいただき束帯、袴をつけ、沓(くつ)をはき両足をやや開いて直立しており、面貌は鼻尖を欠損しています。また、両腕部が欠損しているため持ち物は一切不明で像の形装も不詳ですが、肉身に白色、また衣部に黒色の彩色痕跡が認められることから、当初は著彩像であったことが伺えます。 この種の随身立像の古例は、非常に少なく大変貴重な文化財です。 http://www.town.yokota.shimane.jp/community/rekishibunka/shiteibunkazai/igatakejinja.htm |
伊賀多氣神社 略記 伊賀多氣神社は垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式内の古社にして、出雲風土記に神祇官社・延喜之制・小社とせられている。 御鎮座地は古代横田庄と云い仙洞院御料地であった。 然し乍ら戦国時代の戦火に罹(かか)り御社殿・社家共に炎上し古資料を失ったことは誠に残念である。 御主祭神は、素戔嗚尊の御子五十猛(いそたける)命である。 相殿として素戔嗚尊、大己貴命を合わせ祀っている。 父神素戔嗚尊が姉神天照皇大神のおいかりにふれられ、高天原を逐われ朝鮮の新羅國曽尸茂梨(そしもり)の地に降りられた時、父神と共に降りられ父神をたすけられた。 後に父神が本土にお帰りの折りお供をし五十猛(大田市)の浦へ着かれた。 その時命は曽尸茂梨より樹木の種子をお持ち帰りになった。父神と共に簸乃川上にのぼられ、稲田の里にて稲田の地頭・脚摩乳(あしなづち)、妻の手摩乳(てなづち)より「オロチ」の被害を聞かれ、父神と共に鳥髪山(船通山)に登られ、オロチ族の鉄穴(かんな)流し(鉄の原料である砂鉄を採るため山を崩して流す)のため四方の山々が禿げ山となっており、これでは雨期に洪水となり人々が難渋(なんじゅう)するので、命が、父神はオロチ族に斬様なことをしないよう直接談判して下さい(オロチ退治)。 私は鳥髪山から乾(いぬい)の方角に當る地にとどまり、住民と共に樹木の苗を育て荒れ山に植樹して治山治水を行いますと申された。 その地が御當社御鎮座地角村である。命は住民に「杉及び楠」は浮舟に、「桧木」はごてんを作れ、「マキ」の木は火をたいて物を焼くのに用いよと教えられた。その後、命は日本國中に植樹造林をおすすめになられた。 このため朝廷から國土経営の神として遇せられ、全國の人々から林業の守護神として崇められている。 御社宝 木造 随神立像 二駆 木造 獅子頭 一頭 共に県文化財 御祭日 祈年祭 4月8日 例大祭11月8日 新嘗祭12月8日 社頭掲示板 |