須佐神社
すさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】須佐神社 出雲国 飯石郡鎮座

   【現社名】須佐神社
   【住所】島根県出雲市佐田町宮内 730
       北緯35度14分5秒、東経132度44分13秒
   【祭神】須佐之男命 (配祀)稻田比売命 脚摩槌命 手摩槌命
   【例祭】8月14-15日 切明神事祭
   【社格】旧国幣小社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「須佐社」『出雲国風土記』
       応永11年(1414)「十三所御社」と称
       永正8年(1511)「十三所大明神」と称
       弘治年間(1555−57)の古図に相応の社殿がある
       文久元年(1861)造営
       明治5年郷社
       明治6年県社
       明治32年国幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古くは、北の宮尾山に鎮座していたといい、
        天長年間(824〜834)に現在地に遷座。

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「十三所大明神」「須佐大宮」と称していた
   【公式HP】 須佐神社
   【社殿】本殿大社造
       本殿・幣殿・祝詞殿・神餞殿・拝殿・社務所・随神門

   【境内社】須賀神社・天照神社・稲荷神社・三穂神社
        東末社・西末社・嚴島神社・須佐神社

   【境内図】 境内図

この社は須佐之男命を祖神と仰ぐ須佐氏が、その本貫の地に奉齋したもので、家記に、成務天皇30年、第17代稻田宮主盆成に国造の称号を賜わつたと伝えており、爾来須佐家は代々須佐国造出雲太郎某、出雲次郎某と交互に称して来た。しかし永享年間(1429-41)59代国造孝時の代からは出雲国造に憚って出の一字を除き、国造雲太郎某・雲次郎某に改め、今日まで続いている。


由緒

須佐神社(参拝のしおり)
その昔、須佐の郷は唯茂れる山であり、僅かに川添いに猫額の耕地をもった寒村に過ぎなかった。須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地に来られ、最後の国土経営をされ、「この国は小さいけれ共よい国なり、我名を草木にはつけず土地につける」と仰せられ大須佐田、小須佐田を定められたので須佐という、と古書に見えている。命がこの地に一生を終えられてから二千有余年、その御神徳は今日まで及び村は栄え、子孫は生業を得て繁栄している。須佐大神の恩頼にかかぶりて、農業の成功を、交通の安全を、畜産の発達を、子孫の繁栄を、良縁の結ばれんことを、諸障退散病気平癒を祈るもの、精神錯乱の恢復を祈請するもの、比較的交通の不便をいとわず陸続として来る有様で、その御神徳の程がしのばれる。只惜しむらくは、須佐の大宮は何としても僻陬の地であったため、中央との交渉、接触少なく、知られねばならぬことも知られず、顕彰さるべき事もそのままに時は移り、時代時代で国守の崇敬は得ていたとしても神社の社格のことも須佐国造家のことも他国の神社やそれに比して決して十分な待遇がなされていなかった事は色々な事象に照らしても明らかで、後人の等しく遺憾と思うところである。
須佐家の事を付け加えるならば須佐大宮司家が国土開拓に功うありし国つ神の末裔であるというので国造に命ぜられたのは、24代益成宮司の時で成務天皇30年(160年)今より1800年前のことである。それより出雲太郎、出雲次郎を名乗っていたが、永享年中(1434年)出雲国司にはばかり出の字を除き、代々交代に雲太郎、雲次郎として今日まで連綿78代、2640余年を経ている。今の宮司建紀氏は雲太郎である。須佐の姓は明治の始めにつけたもので、それまでは須佐国造某と名乗るを常としていた。尚国造の制は大化の改新の時廃されたが、出雲、紀伊、阿蘇及び尾張の国造だけは残されてその名を存している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



須佐神社

出雲国風土記に見える須佐之男命の御終焉の地として御魂鎮めの霊地、又御名代としての霊跡地であり、大神奉祀の神社中 殊に深い縁を有する。須佐之男命の御本宮として古くより須佐大宮、天文年間には十三所大明神という。出雲の大宮と称え、農耕、殖産、興業、延壽の神として尊崇深厚あり、朝廷をはじめ累代国守、藩主、武将の崇敬は申すに及ばず、世人の尊敬あつく、社殿の造営は、武将、藩主によって行うのを例としてきた。明治5年郷社に、同6年県社に、同32年国幣小社に列せられ、第二次大戦の終戦後は別表神社として今日に至り、世人の尊宗あつい。

公式HP



七不思議

この地には語り継がれる七不思議がある。
@塩ノ井(しおのい)
本社前の小池、須佐之男命自ら潮を汲み此地を清め給うたという。日本海に続き満潮の時は附近の地面に潮の花をふく。分析の結果は「芒硝含有食塩泉」で弱アルカリ性である。
A相生の松(あいおいのまつ)
男松女松が一本の大木となっている。今は枯れ、かわりを植えている。
B神馬(しんめ)
神社には馬を奉献するを常とし、この馬は後必ず白馬に変り異常をよく予知せりという。今はなし。
C落ち葉の槇(おちばのまき)
槇(柏)の葉に松葉で通した孔がある槇の喬木。そのかみ、稲田姫が、於呂志古山(産子山誕生山)でお産をなさった時、産具を柏葉で包み松の葉で綴じ流瀬川にお流しになり、それが現在の位置にとどまり川畔に繁茂して今日に至るという。この古事が後世、須佐神社の神紋「蔓柏」となったもので蔓は松葉を文様化したもの。従って須佐家の家紋の起源でもある。
D影無桜(かげなしさくら)
昔隠岐国で耕田が稔らず不作が続いた。知々井の某に夢想があり「須佐大宮の境内に大きい桜が繁茂して、それが隠岐へ影をさす為に耕作が出来ぬ。早く出雲へ渡って須佐の国造に頼んでその桜を切ればよい」とのことであった。そこでその桜を切ったのであるが、その株から芽を出してやっと花が咲くようになると枯れ、又芽が出るというようになって今日に至る。これは五穀豊饒の祈祷のことをいったものか。
E星滑(ほしなめら)
須佐の中山の嶺のあたりに岩石の露出して谷の様になっている所に白い斑点がある。(神社の西方) それが豊年なれば多く、凶年なれば少ない。
F雨壺(あまつぼ)
神社の西を流れる素鵝川に沿って、約一粁下流の田の中に大きな岩があり、その中に径二尺(七十センチ)余の芝生がある。これを犯せば須佐大神の怒りにふれて洪水が出るといわれている。現に之を犯して翌日暴風雨となり洪水が出て村民の怒りをかい村から追放された事実もある。

公式HP



須佐神社

第七章 須佐神社
山陰本線の出雲今市駅から南方四里半に大宮線の須佐駅がある。ここから徒歩にて三十分、即ち飯石郡東須佐村大宇宮内に國幣小社須佐神社が御鎮座あらせられます。当社は風土記には当郡官杜五所の筆頭に須佐社と記し、式の神名帳には須佐神社と記されてゐるが、応永21年の当社の古棟札には十三所御社、永正8年以降の古棟札には十三所大朋神、天文23年以来の古棟札その他のものには須佐大宮、又当社の古印をはじめ飯石郡図等には出雲大宮、延宝5年以来の社領証文には須佐明神と見え、明治4年郷村産土神の制定に方つて改めて須佐神社と定められたが、通俗には今も須佐大宮と称せられて居ります。
その須佐の社名は地名の須佐から来たものと考ふべく、当社の御鎮座地はこの須佐の内で宮内と呼ばれてゐる所である。市町村制の定まる以前までは宮内村といつた。しかるに当郡には外に掛合にも宮内といふ所があるので、区別するため普通には須佐宮内・掛合宮内と云つて居ります。元来この宮内といふ地名は、古来の名社大社の御鎮座地につけられてゐるやうなれど、しかも神社を中にして山を以つて取廻らした区画内の土地を意味する言葉らしく、乃ち当社の御鎮座地なる須佐宮内は、四面皆山でかこまれた三角形な盆地であつて、神門川の上流をなす一支水 素鵞川 が、その中を貫いてゐるのであります。当社の大神が、この國は小國といへども國処なりと詔うたと風土記にあるのは、なる程と肯かるる地形であつて、当杜の神域は、この盆地の一隅の田疇の中に在つて、素鵞川の清流が西の境堺に沿うて北流してゐると云ふ状態であります。
何も知らぬ人は、一見現今の須佐神社があまり低地に在るので、奇異の感に打たれる事であらうと思はれるが、神代以来の宮殿としては、須佐の地は現今の処より他に求められない。朝日の直刺す処、夕日の日かくる処、そして水に近き処、古代より変らぬ我國民思想を確かに知ることが出來る。そして特に愛せられだる大須佐田の畔であることは、心あるもの皆等しく首肯する処である。(須佐神社概要)
現在の境内は一千一百六十八坪で、略々長方形をなし、殊にその地盤は他社と異り、鳥居を潜つた境内の入口が最も高く、次第に御本殿の位置にすすむにつれて低くなつてゐるのは、深幽の意義あることかと窺はれる。又別に縣道を隔てて上ノ御前と称する天照神社があつて、本社と相対してゐる。この御社は宝暦12年の古図に上社、明和4年の古記にも同様に記されて居るのを見ると、下社たる本社と相合して一社をなしてゐたものの如く考へられます。
次に現在社殿の大様について云へば、本殿は正殿造(大社造ともいふ)七尺間の二間四方で、その前方にもと幣殿たりし祀詞舎、もと拝殿たりし幣殿・神饌所、もと庁舎たりし拝殿が次々に並び、もとの厩含の跡に社務所が立ち、外に神馬舎・倉庫・摂末社が蔚然たる松杉の下に隠顕して居ります。就申本殿直後の巨杉は千年の齢を重ねた老樹として、低徊顧望久しうせしめるものがあります。そこで雲陽誌によつて、更に境内諸殿舎等の説明を聞けば、
本社二間四方朱欄・石階前にあつて穐々たり。拝殿・車寄・火焼屋・神馬閑、和幣瓢々としで瑞離長く華表高し。南に天照大神の宮あり。年中両度朝観の祭あり。尊を尊とするの儀を示す。後に稻田姫の社、是素尊の婦なり。其社をへたつることは夫婦別あるの義を表し給ふ。左に五男右に三女の社あり。右大將頼朝の新建なり。其の後足利氏、政を執つて恒式頼朝のごとし。佐々木氏・尼子・毛利家にいたるまで、皆その例にまかす。大守源直政公再建、神馬を献し賜ふ。それより当太守にいたるまで綿々として萬世に及ぶべし。本社の前に小池あり。須佐能哀尊自ら潮をくみたまひ此地をきよめ賜ふ。今も池中にしほ貝の類生せり。是又潮にてきよめ賜ひししるしなり。老祠官の語りけるは、あれなるは哀呂志古山、これなるは宮尾山、麓に養老泉あり。是れ明神の御供水なり。乾にながるるは素鵞川、その清冷他にことなり。坤の山に劒明神あり。これ蛇を断劒をまつる。
(中略)山間に頭巌と號するあり。むかし素盞烏鬼の首をきる所なり。その地を地獄平といふ。その側に流瀬川あり。太神一女神を柏葉につつみ、ここに流し給ふ。故に流瀬川と称す。その柏樹今に於呂志古山の嶺上にあり。大さ牛をかくす。一女神は石見国橋の浦へ流れよらせたまひしを、当国日御碕に移したてまつり、今に崇敬すと申傳へ侍る云々。
當社には須佐の七不思議といつて、かの境内に潮水の湧出し、或は柏葉の神異など今に敬多の不思議が存するが、柏葉は今は御神紋となつてゐる。乃も当社の御神紋は二重亀甲に三つ柏を入れ、その三葉の柏葉の間に松葉を一葉(二本)二本宛、つまり三葉を挿ませたものである。この柏葉の由来には日後碕神社の御神紋と一脈の相通ずるものがあるのも深契あるわけであり、且つ神紋の由來を物語る興味深き一例であります。(詳細は須佐神社概要にゆつる)けだし亀甲の紋章は出雲系を表示するものと考へられます。故に単なる亀甲のみが原形であり、その亀甲の中へ、例へば出雲大社は劒花菱を入れ、美保神社は巻雲・巴(両種あり)等を入れ、意宇郡の諸神社等は有の字を入れ、其の他鷹の羽・扇等を入れて各神社の区別を立てて来てゐるのであるが、しかも近来に至つては、この亀甲の中へ天・大・三・姫等の如き社号又は神号の一字を入れて、やや通俗な感じのする神紋も出来て来たやうであります。
さて風土記によると、『神須佐能哀能命詔りたまはく、この国は小国といへども国処なり。故れ我が御名は木石につけじと詔らせ給ひて、即ち己命の御魂を鎮め置き給へる所なり。然れば即ち大須佐田・小須佐田を定めたまへり。故れ須佐といふ』とあつて、ここに御祭神須佐之男命が、当時の通則たる木石にまつる例に反して田地に御魂をつけて祭り給へることが見えて居ります。乃ち當社は大神が自ら御魂を鎮祭し給うた尊い御社で、これはかの天照大神斎鏡の大詔の趣にも比ぶべく、實に類例の鮮ない所であります。而して御魂をこめさせられた御田は、即ち後世の所謂御名代の田とも考へられるけれど、事實は須佐之男命は即ち須佐の地の男の義で、その地名が本でその地名に基いて尊名が出来だのだと解すべきであるかも知れぬ。果して然らば須佐之男大神は、即ち当須佐の地に御住居坐したによつて御名に負はせ給うたといふ事になり、彌々当杜は大神の本つ御社といふ訳になります。元来いかなるわけか、風土記には須佐能哀能命の御関係のことは、極めて否定的もしくは消極的に記されいゐるが、これは多分相当に大きな意味があることと思はれます。その中でもここにだけ特に上記の如き記載があるといふことは、更に注意すべき点かと考へられるのであります。
加之、當社の御鎮座地の字は清地といひ、これを流るる川は素鵝川といふのであるが、社傳によると所謂須賀の里もつまりここであると云ふ。蓋しこれは古典に拠る所があるのであつて、古事紀上巻に稲田田宮主須賀八之耳神のことを記した條の記載は、風土記によると大原郡須賀社の邊ののことと思はれる。(後略)

神国島根



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