出雲国風土記の「飯石社」に相当する。祭神の天降られた磐石を御神体とし、二重の玉垣で囲み本殿にかえている。 出雲国造が御幣を奉られる幣殿に、通殿、拝殿を配し直接御神体を正面から拝むことができる。磐座という古代の聖地祀形態を今に伝えている。またこの地を命の降臨の聖地として注連縄を用いず、境内には他の神社に見られる摂社・末社は勿論、随神門、燈篭、狛犬もなく、純粋に古来の伝統をそのままに継承している。 出雲國風土記に、「飯石郷。郡家の正東一十二里なり。伊毘志都弊命(いひしつべのみこと)、天降り坐しし處なり。故、伊鼻志と云ふ。神亀3年に、字を飯石と改む。」とあり、当社の社名(祭神名)が、飯石郡の起源になる。 かつては伊毘志と言われていたが、神亀3年、飯石と改めた土地です。 中世には荒れ果て、神体石のみ残る状態だったが、江戸期になり整備された。 |
由緒 飯石神社由緒 出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、出雲国風土記に飯石郡の条に「飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。」また「郡家の正東一十二里なり。伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故伊毘志と云ふ。」(神亀3年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐石が御神体となっているので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐境、磐座という自然信仰の形態をそのままの姿で現在に伝えている。又、この地を命の降臨の聖地として、古来注連縄を用いないのも特殊の習慣である。 明治44年8月の遷宮工事の際、御霊代の本殿磐石のかたわら境内の字迫から、古墳時代の祭祀用遺品とみられる高坏、壷などの須恵器類が出土した。 御祭神伊毘志都幣命は天照大神の第二の御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命とも云い、国譲りに際して三穂之崎に事代主神を尋ね国土奉還の大業を成就された神であるとされている。その時に使用された船を熊野諸手船という。 伊毘志都幣命は、出雲国造家の祖神にあたるため、古来正遷座祭には出雲国造御参向のうえ、奉幣を奉られる習わしであったが、近年(昭和42年以降)に至り、例祭にも国造御参向が慣習となっている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
飯石神社 式内神社 飯石神社(旧県社) 祭神 伊毘志都幣命 例祭 11月4日(出雲大社宮司御参向) 命の天降られた磐石を御神体とし、二重の玉垣で囲み本殿にかえている。 出雲国造が御幣を奉られる幣殿に、通殿、拝殿を配し直接御神体を正面から拝むことができる。磐座という古代の聖地祀形態を今に伝えている。またこの地を命の降臨の聖地として注連縄を用いず、境内には他の神社に見られる摂社・末社は勿論、随神門、燈篭、狛犬もなく、純粋に古来の伝統をそのままに継承しているのも持殊である。又境内の辺より祭祀遺跡が発見され学会の注目を集めている。 出雲風土記によれば飯石郡、飯石郷の地名起源を、この地に「伊毘志都幣命が坐すためである。」と記している。 これは命が本郡開拓の産土大神であるからに外ならない。命は亦の御名を天夷鳥命と申し、天照大御神の第二の御子、天穂日命の御子であり出雲国造家の御祖神にあたり、例祭は千家出雲国造御参向の上執り行われる。又大国主命の国土奉還に祭しては熊野諸手船にて美保之関へ事代主命を尋ね、その大業を成就された。美保神社で行われる諸手船神事は、この故事によるものである。尚当社は古来飯石郡中の総氏神として郡中より幣帛を奉り、歴代の藩主、歴代知事の参拝相継ぎ、島根県神社庁より特別神社としての指定を受けている。 境内社 託和神社(出雲風土記所載社) 祭神 吉備津彦命 古来、中野、六重、神代、深野、上山・曽木・川手・七ケ村の総氏神であった。明治44年旧社地よりこの地に遷し、八幡宮も合祀された。旧社地の付近より西日本最古の縄文土器が発見されたのは周知の通りである。 社頭掲示板 |