勧請年代は未詳であるが、社伝によれば、往昔新宮氏の先祖が紀州熊野から勧請したとなっている。 阿須利神社は元禄13年(1700)、南の尾根一つ隔てた三谷の山上に鎭座する三谷権現の境内に遷し、以後その境内末社とするに至つた。 明治5年阿須利神社の独立に伴い、当社は廃社となった。 昭和13年に再興したが、水害で崩壊したため、昭和37年三谷山から現社地に遷座した。 現在当神社が鎮座するこの丘は、昭和37年の遷座当時には、誰もが普通の丘だと思っていた。その後考古学が発達してくると、これが只の丘ではなく、実は四隅突出型墳丘といわれる弥生時代の首長墓の跡であり、しかもその中で一番大きいものだということがわかってきた。 |
由緒 当神社は戦国時代の初め(約500年前)、紀州熊野(和歌山県東牟婁郡)からお迎えして、上来原の大神谷(俗称おおかめだん)の山上にまつり、元禄5年(約300年前)、池の内の干拓に伴い、それまで同地の杓子山にあった阿須利神社を三谷山上に遷した機会に、いっしょに三谷の地に奉遷し、社号も三谷神社と改めましたが、明治3年、版籍奉還に伴う神社整理によって相殿の阿須利神社を山廻りの方へ遷すことになったため、それ以後はこの来原地区における唯一の守護神としてまつりきたったものを、昭和37年未曾有の水害により、現在地に三遷して今日に至ったものであります。 御祭神健磐龍命は神武天皇の御皇孫で、殖産興業の守護神であり、いかなる困苦にもうち勝つ、強い御魂を備えたまう大神であります。 例祭に奉納される獅子舞は、出雲古来の投げ獅子の型を伝えるもので、出雲市無形文化財、島根県無形民俗文化財に指定されています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
三谷神社の由緒 当神社は建磐龍命を祭神とし、古くは紀州 ( 和歌山県 ) 熊野で祀られていたお社でした。 それをおよそ南北朝・室町時代のころ、今の新宮家の先祖がこの地に奉遷し、時の開拓地主鐘推氏、村役人四方田氏の協力を得て、悪疫退散・殖産興業の神として祀ったのがはじまりであるとなtっています。 その最初の鎮座地は長廻谷 ( ながさこだに ) の奥の、今も地名としては残っている元権現の地でしたが、やがてこういう威力の高い神はもっと奥の聖域に祀らねばならないという声が挙がって、南の三谷山の上の瀧のほとりに遷しました。 その年代ははっきりしませんが、例えば天文20年 ( 1551 ) 今の佐田町に本拠をおく武将伊扶左京亮 ( いじつさきょうのすけ ) から石塚神主に宛てた安堵状や永禄5年 ( 1562 ) 出雲国造千家慶勝からやはり石塚神主に宛てた申渡状などにはみな 「 神門郡久留原村三谷権現 」 となっていますから、遅くとも戦国時代にはもう三谷山上に遷っていたことと思われます。 以来約五百年、三谷神社は 「 高神さん 」 であるとして、氏子だけでなく近郷近在からの参拝も多くなり、祭日には 「 宮中旗を立て、弓箭を飾り、神事をつとむ 」 と松江藩編の雲陽誌にも記しています。 だからこそ、他ではほとんど消滅したいわゆる 「 投げ獅子 」 つまり出雲古来の獅子舞も、ここには残ったわけです。 ところが、思いもよらぬことに、昭和36年未曾有の降雨があり、山崩れがし、境内地が埋まり、社殿が倒壊するという事態が生じました。 そこでたまたまここに格好の丘があるからというので、翌37年この地に奉遷したのですが、このことは結果からするとたいへん良いことでした。 お宮が近くなったというので氏子が一挙に増え、祭りもにぎやかになりました。 神さまはやはりこうなることをお見通しだったのです。 社頭掲示板 |
神話と歴史 四隅突出型墳丘といわれる弥生時代の首長墓が、出雲を起点として東は伯耆・因幡、更には越の国にまで及んでいたことを知ってみると、ここで感じられることは、これがあの出雲神話にいう大国主命の活躍の範囲と一致するということです。 勿論神話はそのまま歴史の証拠となるものではありません。 けれども、だからといって全く架空な単なる 「 お話し 」 ではないのです。 単なるお話しであったのなら、それを古事記・日本書記という、天皇の命により、当代一流の学者を動員し、国家事業として編纂した史書に載せるはずはないのです。 ですから、これはやはり遠い祖先の功績譚として、まじめに語り伝えられてきたものであり、それを八世紀という、ようあく文字を使って文章を綴ることができる時代になって書き表したものだとしなければなりません。 けれどもあの頃の人たちは、話の筋を正確に伝えるということより、先祖様はありがたいという気持ちの方がより強かったのです。 そのため何代、何十代にもわたって語り継ぐあいだには、内容が大げさになり、尾びれが付き、現実にはあり得ない形になった面も、それはあります。 けれども原形はあくまでもまじめな真剣な、神と仰いだ先祖の功績譚であったと考えねばなりません。 そういうふうに考えると、当時の出雲人だちが共同の祖神と仰いだ大国主命( 大穴持命 ) が、因幡の国や越の国にまで妻まぎに行かれたという古事記の話しや、古志の八口という所を平定して帰られたとか、逆に古志人が来て今の下古志あたりで堤をつくったという出雲国風土記の話し、さらにはあの国引きの話しの中に高志 ( こし ) の都都 ( つつ ) の三埼という言葉が出てくることなどにも、やはりそれなりの歴史的背景があったものと思われてきます。 ともあれ、ここは今我々にとって共同の氏神の聖域であるとともに、またもって遠い祖達の活躍の跡をしのばしめる、いわば二重の聖域でもあるわけです。 平成13年11月3日 文責 石塚尊俊 社頭掲示板 |