。『出雲国風土記』に「夜牟夜社」とある。 塩冶比古神社は現社地より東方ないし北方の山の手にあつたが、中世塩冶氏の発展に伴う八幡宮の勧請によつてその八幡宮に迎えられ、八幡宮とともに正徳3年(1713)現在地に遷つたと思われる。 本殿内部は内外両陣に分れ、内陣に内殿三基を安置するが、その正中は塩冶の諸神、左座は八幡大神、右座は高貞霊神であるとする。 石段を下つて約250m進んだ地点の北側が正徳以前の社地であつたというが、ここは全くの平地であり、現在では水田ないし宅地となつている。 式内社の塩冶神社・塩冶比古神社・塩冶比古麻由弥能神社・神産魂命子午日命神社・塩冶日子命御子燒大刀天穂日子命神社の5社を「合祀」としているが塩冶比古神社については合祀されている記録があるが、他の4社は現存する棟札・指出帳にかかる限り、近世以前の塩冶八幡宮にこれが合祀されていた痕跡はない。 |
塩冶神社 例祭日 4月15日 当社は大国主命の御孫神である塩治毘古命とその妻神である塩治毘売命を主祭神として御祭りしております。御創建の年代はあまりにも古く詳しくは判りませんが地名として塩治(出雲風土記では夜牟夜止屋)の字が始めて用いられたのは神亀3年(726年)であります。当時塩治郷を治められた産土神様として郷民の崇敬していた事は明らかであり、爾来今日に至るまで引き続き塩治の郷の氏神様として信奉して参った次第であります。 尚、鎌倉時代に時の守護職塩治頼泰公が勇武を尊ぶ趣意から誉田別命を合殿に勧請したことにより塩治八幡とも呼称されて参りました。 社頭掲示板 |
塩冶判官高貞 出雲隠岐守護 塩冶判官高貞公 顕彰の碑 塩冶判官高貞公は鎌倉末期から南北朝の激動する世相の中を、出雲の守護として「天長、地久、国土安泰」を念じ懸命に生きようとした我が郷土の誇るべき武将である。 世に言う元弘の乱(1331年)以来、後醍醐天皇の親政を救け、京都還幸のの先達を務め建武の中興を支えるにない手となった。その後室町幕府の要職にあったが、いわれなき讒訴(ざんそ)にあい、京都を出奔、最愛の妻西台の局をも失い、自らも馬上で妻子の後を追った。人間味豊かな武将である。 後世、高貞公夫妻の名は歌舞伎の名作「仮名手本忠臣蔵」によって脚色され、民衆の人気の的となった。 本年高貞公没後650年に当たり、全国各地の塩冶氏、高貞公の末裔、南條氏、地名を氏とした塩冶郷の人達と語らい古墓を整備し御霊を慰め子孫の繁栄を願い、その生き方をしのび、ここに後世に伝えるものである。 祭霊 塩冶頼泰、貞清、高貞公夫妻及び一族 事業内容 神門寺境内の高貞公の墓の整備、祭典及び法要 塩冶神社境内に顕彰碑の建立 歌舞伎の主催 寄付者ご芳名 塩冶一族 (以下省略) 南條一族 (以下省略) 高貞公所縁の寺社 出雲市 塩冶神社 姫路市 円通禅寺 倉吉市 定光禅寺 出雲市 神門寺 、観音寺 浄音寺 平成3年9月吉日 塩冶判官高貞公650年祭実行委員会 社頭石碑 |