出雲国風土記の「久奈爲社」に相当する。 栗栖山(久留須山)に山腹に鎮座する。 風土記に載る久奈子社と同久奈子社の二社は、現在地より南西2Km余、新宮川の上流の上新宮に在つたが、何時の頃からか現社地の久奈爲神社に移り、ここに三社が合併して久留須山に鎭座する神社久留須神社となった。 |
由緒 当社は、出雲風土記及延喜式神名帳に載れる神社にして嘉祥4年に正六位を授け奉り、寛平5年に一階を加え奉り給えり。祭神伊邪那美命延喜式に記載ある久奈為社である。祭神速玉男命、事解男命出雲風土記に記載ある久奈子社同久奈子社の二坐は是である。創立年代詳かでないが、風土記当時は出雲国神門郡古志郷といい伊邪那美命の時越の国人工人多数来たりて、築池、築堤を行い稲作大いに起こり、古志の字が用いられたとあり、律令時代出雲国庁のもとに、神門郡郡家があり、古志郷庁と狭結駅家との合同庁舎が古志に置かれ大いに交易文化が繁栄したことが風土記にある。 古来社殿は古志新宮谷の宮床と、久奈子山に鎮座の久奈子社二社を中古久留須に鎮座の久奈為社に移し三殿を合殿し、今の地に久留須神社と称し郷民に崇敬されてきた。今も殿内に三殿を奉鎮しあり。明治5年壬申正月旧藩松江県神社取調の際村社に列ね社号を、久奈子神社と改称し奉るべき旨の達しにより、久奈子神社と旧名に復し、之により久奈為の社号は今廃名となり現在に至る。明治7年戌6月5日神社取調の際、武御名方命、諏訪神社を当社に配祀し相殿とす。明治39年4月勅令第96号により明治40年2月16日、島根県告示第23号を以て、神饌幣帛供進することを得べき神社と指定される。 その後武甕槌命三武社、御食津神櫃守社、大歳命大歳社、誉田別命八幡宮の各社を大正2年5月28日合祀出願、7月2日許可を得て、大正3年1月15日合祀に至る。古来より二頭の祭あり。久留須振鉾舞、獅子舞、神事華等あるも今は簡素化す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
久奈子神社 祭神 伊邪那美命 合祭 速玉男命(久奈子社) 武甕槌命(三武社) 大年命(大年社) 事解男命(久奈子社) 譽田別命(八幡宮) 保食命(櫃森社) 合殿 建御名方命(諏訪社) 例祭日 10月15日 出雲國風土記、延喜式神名帳に載っている久奈爲社は、奈良朝以前久留須山に、久奈子二社は上新宮に鎮座していた。 その後年代は詳らかではないが久奈子二社が現在地の久奈爲社に移り、この三社が一つになり久留須三社となった。 江戸時代になってからは久留須権現、久留須三社明神とも稱せられていた。 明治5年神社制度改正に当って、社号を久奈子神社と改稱し村社に列せられた。 続いて明治7年には三武社・大年社・八幡宮・櫃森社が合祭、諏訪社が合殿奉祀され、爾来今日まで古志地区民の氏神として崇拝されている。 昭和63年2月吉日 古志明るいまちづくり推進協議会 社頭掲示板 |