朝山神社
あさやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】朝山神社 出雲国 神門郡鎮座

   【現社名】朝山神社
   【住所】島根県出雲市朝山町1404
       北緯35度19分9秒、東経132度46分21秒
   【祭神】真玉着玉邑姫命 神産巣日神 大己貴命
   【例祭】4月29日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「淺山社」『出雲国風土記』
       永正17年(1520)社殿焼失
       永禄9年(1566)「雲井瀧大明神」と称
       元禄3年(1690)「雲井瀧三社大明神」と称
       明治5年郷社
       昭和3年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「雲井瀧大明神」「宇比瀧大明神」と称していた
   【社殿】本殿大社造銅板葺
       幣殿・拝殿・隨神門・社務所・祭器庫・祓所

   【境内社】朝山十九社
   【別当】鰐淵寺

出雲国風土記の「淺山社」に相当する。
標高160mの山頂に鎮座する。
この山は大神の御屋であるとの傳承があり、この山の社前20mの地に雲居に懸ると形容される高さ約100mに垂んとする見事な瀧がある。
出雲国風土記では、この狭い地域に並ぶ山々を、オオクニヌシに因んだ様々な持ち物の名で紹介しており、今も朝山郷六神山と呼ばれています。【参考HP】https://ameblo.jp/marudenden/entry-12139485358.html


朝山神社

朝山神社々記
御祭神
眞玉著玉之邑日女命
神魂命
大己貴命
祭日
歳旦祭 元旦   祈年祭 2月27日
例祭  4月10日 神在祭 自旧10月1日 至旧10月10日
新嘗祭 12月5日
御由緒
 主祭神 眞玉著玉之邑日女命は神魂命の御子にして姿容端正淑徳玉の如し坐し坐せば「大己貴命娶り給いて毎朝に通い坐しき故朝山と云う」と出雲風土記に記さる。
 当社の創立については当地方の神楽歌に
「ありがたや宇比多伎山の宮造りこれぞ社の初めなるらむ」
と歌はれる如く余りにも古く古典に依れば出雲風土記に淺山社 延喜式神名帳に朝山神社と記さる。
 当社は往古より山美しく水清き宇比多伎山に御鎮座坐し坐し位置を移せしことなく故に中世より宇比多伎大明神とも申し奉る。
 天武天皇以来皇室を始め毛利市松平氏等領主の崇敬厚く右文書に依れば毛利氏出雲国を領し時の左の棟札あり
 永楽9年9月18日遷宮
大檀那大江朝臣坂本貞公武運長久
 文禄5年丙申歳遷宮
護持旦那王中藤原朝臣元圓武運長栄
境内神社
星宮社   御祭神 皇之命
船子神社  御祭神 猿田彦命
杉尾神社  御祭神 豊受姫命 字杉尾に鎮座せしを明治5年当社に合殿
朝山十九社 御祭神 八百萬神 旧10月1日より十日の間八百萬神御旅所 平日は八百萬神の遥拝所
昭和54年11月吉日 朝山神社社務所

社頭掲示板



神在祭

この神社の神在祭は旧暦の10月1日から10日までの十日間であるが、ここでは神在祭りのことを御忌祭あるいは宇比忌さんと称している。最初の日の夕方、氏子総代も参加して鳥居の下に立てた神籬に出雲大社から八百万神を迎え、絹垣で神籬を囲んで境内の十九社に神々を迎える。以前は本殿に迎えていたが、1979年に出雲大社にならい十九社が造営されたという。
 神がお帰りになる10日までは神社では歌舞音曲はつつしみ、10日の夕方、神迎えの時と同じく鳥居の下に神籬を立てて、このときは神職だけで神送りがなされるという。この社の伝承によると神々はここから杵築大社(出雲大社)、佐太神社へ向かわれ、万九千神社から各地へ帰られると云う。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/izumoasayamazinzya.html



朝山神社のしおり

一、所在
・出雲市朝山町大字上朝山宇比多伎1404。
・山陰線出雲市駅から南ヘ五粁、神戸川の支流、稗原川に沿って上ること一粁のところで字比多伎山の登り口の鳥居をくぐる。
・ここから徒歩の上り道で約20分、最近開通した大型林道を車で上れば五分ほどで標高160mの山頂にある朝山神社に着く。
二、社殿
本殿=大社造
 2.25坪。西面。
 大正2年の造営で、昭和53年遷宮時に銅葺となる。刎高欄付。
幣殿=入母屋造。
 二間四方。瓦葺。
拝殿=入母屋造。千鳥破風造りの約二坪の向拝をつける。
 間口四間・奥行二間半。瓦葺。
三、境内  
・九九三坪。明治45年に現状のように整備され、欝蒼たる森林に覆われた神域は森厳さを増した。
・社殿の前は谷の開けた水田になっていて、古代の人の住居になっていたことが想像できる。
・その上に、この田をうるおす清浄な谷水が100mの滝となって落下する景観を見ては、山そのものを信仰の対象としたととも肯かれる。
四、社名
・出雲国風土記によると、「浅山社(アサヤマシャ)」となっているが、この浅山というのは、南の中国山系が北につきて平野に出ようという、「山地の浅くなったところ」という意味で、神戸川上流の人の住めない深山に対する言葉であり、それが転じて朝山神社となったものと思われる。
・この山の展望台から眺めると、広々とした簸川平野の彼方に、神話で名高い国引山や薗の長浜そして、その向うに日本海が一望できて、さぞかし古代の人々の心を打ったことであろう。
五、祭神
三柱の神が祭られている。
○主祭神=真玉著玉之邑日女(マダマツクタマノムラヒメ)命
・姿の美しい玉のようなうるわしい心をもった女の神様。
○その左座=神魂(カモス)命
・出雲の国の共同の守護神で、親神様として崇拝した神様。
○その右座=大己貴(オオナムジ)命
・出雲の国を開拓なさった大国主命のこと。
六、祭祀
○例大祭=4月29日
○新年歳旦祭=1月1日
○祈年祭=春
○新嘗祭=秋
○「お忌み行事」旧10月1日〜10日
・毎年旧10月は日本中の神々が出雲の国にお集まりになるので神無月(カンナヅキ)と言うが、出雲の国だけは、神在月(カミアリヅキ)という。
神様方は、まず10月1日から10日まで、この朝山神社においでになり、ついで11日から17日までは出雲大社にお移りになり、それから佐太神社(松江市)に向かわれ、最後の万九千社(マンクセンシャ・斐川町)において諸神事を終了して神等去出(カムサデ)の日にそれぞれ自分の神社へ向ってお立ちになる。(万九千社は神立(カンダチ)橋の袂にある)
・朝山神社では、1日から10日までの問、氏子全員が各戸毎に山麓の一の鳥居から社殿まで、急坂約1Kmを朝暗いうちから朝食までにお参りする。そして最後の日は10月10日祭と言って祭典を執行し、午後は種組祭(タナグミサイ)で来年の稲の品種定めを祈った。
・今はこの風習が衰えたが、氏子総代等はこの期間神社参拝をしている。
七、神職
・このように極めて古い由緒を持ち、格式の高い(明治5年郷社、昭和3年県社、それ以前の由緒略)神社であるのに、専任の神職がないのが不思議である。
・古く神仏混淆時代には鰐渊寺松本坊のお坊さん(大阿奢梨(ダイアジャリ))が社司を務めたが、あまりにも距離が遠く不便であるので、氏子総代吉田仁佐衛門(吉田家総本家)に鍵を預けて細務を司らせた。しかし、それでも不都合が多いので祭典に関する一切の神文秘法を吉田家に譲り渡した。
・こうして吉田家が責任をもって神事を執行しなければならなくなったものの、百姓の身では祭事を司ることができないので、近隣の神職を雇い下職神主として参与した。
・しかしこれでは祭事はもちろん何かと差支えも多いというので、明和3年(1766年)7月に京の白川家から「許状」を受け、本神主と同等の待遇をもって祭事を務めるようになった。その後金本家が正式に神官に任命され、初代金本左進(藤原豊勝)氏(明和年間)より、金本庫之助(大正2年)まで七代にわたり仕えた。
・つづいて橋本家、福田家、塩野家、神職家が兼務を引継ぎ、現在の松尾家も小田神社(出雲市多伎町)を本務として兼ねている。
八 、氏子及崇敬者
・旧朝山村大字上朝山の97戸が氏子である。
・崇敬者として旧朝山村馬木・所原・見々具・旧稗原村・旧塩冶村・旧今市町を含めて3569戸あったと大正末期の調査に書かれている。
・総代は8名で、2名宛四組に分れ、一組で一年間神社に奉仕し、神社の経営に当たっている。
・なお「出雲国風土記神門郡の条」に記載されているように、神社にゆかりの山々が多く、随って、社有林も多い。
○宇比多伎山=郡家東南
・五里五十六歩
・大神の御屋
○稲積山=郡家東南
・五里七十六歩
・大神の稲積
○陰山=郡家東南
・五里八十六歩
・大神の御陰
○稲山=郡家正東
・五里百十六歩
・大神の御稲(東に樹林あり三方並磯なり)
○桙山=郡家東南
・五里二百五十六歩
・大神の御鉾(東西に樹林あり、東北並磯なり)
○冠山=郡家東南
・五里二百五十六歩
・大神の御冠

朝山神社の主祭神は「容姿端正淑徳玉の如く」であった。マタマツクタマノムラヒメノ命で、大国主命が朝ごとに通われたので朝山という社名になったと出雲風土記は伝え、当社への参詣により容姿いよいよ美麗になるとの伝承がある。
平成25五年11月吉日 謹製

由緒書



出雲国INDEXへ        TOPページへ



順悠社