「式の佐伯神社は風土記の在神祇官社の「波加佐社」であらうが、中古から近世にかけて那売佐神社の神職武田家が當社の神職をも兼帯するやうになつて何時しか合祀され、從つて當社も衰徴してしまつたものと解され、祭神も不明になつたのであらう(那売佐神社由緒書では伊邪那伎命となつてゐる)。やがて神西沖町の干拓が貞享4年(1678)の差海川開通を機にして始まり、耕地化が進み、その地の住民が、氏神としてかつて祀られてゐたと思はれる日御碕神社の祭神を奉齋し、やがてこれを佐伯神社として復活した」『式内社調査報告』 佐伯は、伯佐の誤記だとされている。 |