かつては土地神「ミクガノカミ」を祀る神社であつたが、中世以降は勧請神として若一王子権現を祀つた。 |
由緒 御祭神 (主祭神)天之御中主大神 (合祀祭神)宇賀御魂大神 当社主祭神は、天神国神(八百萬神)の最高位の神様が奉斎されております。 何時頃からこの地に奉られたか不明であるが和銅4年〜天平5年に出雲風土記、延喜式及び出雲巡拝記を始め享保2年に松江藩公、雲陽誌等の故書に記され古社なること明らかである。 出雲風土記に神門郡在神祇官社に美久我社(一の宮)とあり、延喜式明細帳に神門郡彌久賀神社と記されている。出雲風土記に神門水海の条に園松山は国引の綱に当たりこの松山の南端は「美久我林」とあるが、この美久我は彌久賀である。 なお美は敬称で久賀を陸、土地とすれば好き土地の意味である、また彌久賀神社は江戸時代慶長元年〜嘉永6年まで社名を若一王子権現御社と言い以後彌久賀神社と称す、嘉永4年に正六位上に叙せられ、明治4年に郷社となる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
弥久賀神社 御祭神 主祭神 天之御中主大神 合祀 宇賀御魂神 由緒 当社の大神さまは、神代の昔天地いまだ漂う時初めて宇宙を治められた神代最高の位の大神さまで天之御中主大神さまで天照大神さまの御祖父さまであります。何時頃からこの地に奉られたか定かでありませんが、文字が我が国に伝来し、聖武天皇天平5年(733年)出雲風土記、延喜式、出雲国巡拝記等の古文書に記されてあり古社なること明らかです。又社名は、出雲風土記(美久我の社)延喜式(弥久賀神社)慶長時代から文政時代(若一王子権現の社)と言い、嘉祥4年に正六位に叙せられ、明治4年郷社となり遠い昔の私達の先祖から今に至るまで多くの人々の心の支えとして敬仰された神社であります。 苗鹿神社 御祭神 天太玉命 本社は元大池村字苗鹿原に神社として奉られていたが明治四十年に末社として境内地に移転し、大正10年に本殿を造営されました。何時頃から苗鹿原に奉られたか定かでありませんが歴史的に明らかなことは享保元年から文政8年頃まで苗鹿大明神と云い以後社名を苗鹿神社となり、明治4年に村社となりました。 恵比須神社 御祭神 大己貴命 事代主命 本社は元大池村字明神に無格社恵比須神社として奉られ、明治40年に末社として境内地に移転し奉られし社であります。 社頭掲示板 |
弥久賀神社 起 源 − きげん − 当社の起源はとても古く、少なくとも今より約1300年前までさかのぼる。天平5年(733年)に完成した 『出雲国風土記(いずものくにふどき)』の中に「神門郷(かんどのごおり)」の神祇官社 (じんぎかんしゃ)が25社、國庁社が12社と記されており、当社はその社の中で筆頭にあたる「美久我社(みくがのやしろ)」 とされる。よって当社は、733年よりも以前の飛鳥時代に存在した社であるが、正式な年代は不明である。 当社は、神門水海のほとりにある「美久我林(みくがのもり)」(西は海岸に面し、 「薗の長浜」の南から石見の國境中島埼までの、いわゆる國引きの綱にあたる砂丘地)を、「美久我の神」を土地の神とし守護していた。また、延長五年(927年)の『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』にも、神門郷の筆頭に「彌久賀神社」と登録されている。この時代に筆頭であった当社は、多くの崇拝者と相当の経済力をもっていたと考えられる。 歴 史 − れきし − 当社を中世以降は、勧請神として出雲國の「若一王子権現御社(にゃくいちおうじごんげんおやしろ)」 といった。その若一王子権現御社は全国で数社あるが、それは熊野大社信仰では修行道での崇敬する加持祈祷の神社であって、 「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」を奉っている。当社は、その天照大御神を奉った社ではない。天照大御神の祖父の神である「天之御中主大神」を奉っていることから、若一王子権現御社となったものと思われる。 また享保2年(1717年)の雲陽誌や天保4年(1833年)の出雲神社巡拝記には、若一王子権現御社の祭神は、「天之御中主大神」、合祀祭神「宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)」と記されている。 元禄時代、神社火災があったと伝えられている。元禄12年に再建されたとあるが、それから明和4年にかけて3枚の 棟札に「彌久賀大明神」と記されている。しかし、社名は時の国主等の命によって「若一王子権現御社」となったり、「彌久賀大明神」となったりしたと考えられる。 また、社格については嘉祥4年(850年)に正六位上に叙せられ、明治4年(1872年)郷社となり昭和20年(1945年)県社に内示されたが、それに関わる書類は、島根県庁焼討事件で焼失した。戦後新憲法制定による旧社格制度の廃止により国家神道から宗教法人になった。 公式HP |