風土記の「加毛利社」に相当する。 社伝に「彦火火出見命の后神豊玉姫命、御子鵜草葺不合命を生み給う時、産屋内ヘ八百蟹来るを彦火火出見命掃部と成られし所以に因りて、その蟹守の後裔が宮崎明神三柱を奉して出雲に来り住い、氏神としたのがこの社で、神守神社とも亦蟹盛神社とも奉称し、地名も神守と唱える」とある。 元は御船山と名付けられた小山に「宮崎明神」として三神を祀られたのが始まりで、江戸時代に新川がつくられたときに現在の地に移された。 加毛利神社には鳥居がない、これは御祭神が天つ神であり国つ神の大国主命を祭る出雲大社より大きい鳥居でなくてはならないということから建てられていない。従って氏子の家も門を造らないという。 |
加毛利神社 主祭神 天津日高彦火火出見命 配神 豊玉毘売命 天津日高日子波瀲武鵜草葺不合命 カニモリ(蟹守)の子孫神が、天照大御神の御孫、ホコホホデミノミコト、お后のトヨタマヒメノミコト、その御子ウガウアスキアエズノミコトの三柱神の御分霊を奉じ、日向の宮崎神宮から船で当地の船子山に着き、宮崎大明神として、お祭りしたのが始まりである。 創立年代は不詳であるが、出雲国風土記(733年)記載の神祇官社、延喜式神名帳登載社であり。古くから地元の守り神として崇敬護持されてきた由緒深い神社である。現存する最古の棟札は寛文五年(1665)松平直政公の時代に行われた修繕の際のものである。 神社名および地名の由来 豊玉毘売命が鵜草葺不合命をご出産の時、周りに多くのカニが集まったため、側に使えていた神がカニを掃いて命をお守りした。命は大層お喜びになり、その神に「蟹守」の名を与えられた、後にカニモリ→カモン(掃部)→カモリ(加毛利)→神守、と変わり今日に至っている。 鳥居のないお宮 加毛利神社には鳥居がない、これは御祭神が天つ神であり国つ神の大国主命を祭る出雲大社より大きい鳥居でなくてはならないということから建てられていない。従って氏子の家も門を造らないという。 社頭掲示板 |
加毛利神社略記(大社造り) ◎祭神 主祭神 天津日高彦火火出見命 配祀神 豊王毘売命 天津日高日子波■武鵜草葺不合命 ◎由緒 カニモリ(蟹守)の子孫神が、天照大御神の御孫、ヒコホホデミノミコトお后のトヨタマヒメノミコト、その御子ウガヤフキアエズノミコトの三柱神の卸分霊を奉じ、日向の宮崎神宮から船で当地の船子山に着き、宮崎大犬明神としてお祭りしたのが始まりである。 創立年代は不詳であるが、出雲国風土記(733年)記載の神祇官社、延喜式神名帳登載社であり、古くから地元の守り神として崇敬護持されて来た由緒深い神社である。現存する最古の棟札は寛文5年(1665)松平直政公の時代に行われた修繕の際のものである。 ◎神社名および地名の由来 豊玉毘売命が鵜草葺不合命をご出産の時、周りに多くのカニが集まったため、側に仕えていた神がカニを掃いて命をお守りした。命は大層お喜びになりその神に「蟹守」の名を与えられた。後にカニモリ→カモン(掃部)→カモリ(加毛利)→神守、と変わり今日に至っている。 ※御崎さん (境内神域)祭神 玉依毘売命(豊玉毘売命の妹神)御本殿の左側にあり、氏子有志によって勧請し奉祭されている。 ※烏居のないお宮 加毛利神社には鳥居が無い。これは御祭神が天つ神てあり国つ神の大国主命を祭る出雲大社より大きい鳥居でなくてはならないということから建てられていない。従って氏子の家も門を造らないという。 ※大歳神社 祭神 大歳神(素佐之男命の御子・国つ神)以前は、加毛利神社の境内にあつたが、現在は「上(かみ)の宮」として、川田の丘に移し祭られている。 祭日 加毛利神社 10月19日 大歳神社 4月9日 社頭 社頭掲示板 |
加毛利神社 出雲国風土記に「加毛利社」と記されている 主祭神 天津口高彦火火出見命 由緒 社伝によると、ご祭神の御子神ウガヤヒキアエズノミコトがお生まれになったとき、産殿に沢山の蟹が寄って来たのて、命の家来が毎日掃き除いた。これを蟹守りといわれるようになり、後それが掃部という宮中の高い役名となった。 その蟹守りの後裔が主祭神と后神、御子神の三柱の神を船に乗せてはるばる出雲のこの地に来て住んた。そしてここに三神を祀り加毛利社と称した。とある。 社頭掲示板 |