風土記の「斐提社」に相当する。 中世不明となつていたが、近世末の考証家によつて、唐川の八王子がそれだと言われ出し、明治以後になつて旧に復した。 大正3年韓竈神社に合紀される前は、平田市唐川町の八王寺瀧の崖(現在地)にあつた。 江戸時代は八王子権現とも呼ばれていた。 昭和23年韓竈神社の遷宮と共に再び元の位置に遷り、八王寺瀧の横の崖に鎮座されている。 |
斐代神社 後藤蔵四郎氏の『出雲風土記考證』に「大正3年岩船神社に合祀された」とある。岩船神社とは、現在の韓竈神社のことであるが、この韓竈神社に合祀される前は、平田市唐川町の八王寺瀧の崖にあつた。しかしそれは『雲陽誌』楯縫郡唐川、八王寺権現の條に「社二尺五寸四方東向、古は祭日も定めてありつれども、中古より絶て、今は祭祀の規式もなし」とある如く、既に此頃には衰徴してゐたものらしい。 『出雲神社巡拝記』には、唐川村の條に「八王寺大明神 記伝斐提社 式伝斐代神社」と記してゐる。現在は、昭和23年の韓竈神社の遷宮と共に再び元の位置に遷り給ひ、八王寺瀧の横の崖に鎮座されてゐる。 社頭掲示板 |
斐代神杜の歴史を顧みる 韓竃神社 宮司佐々木佑 毎年4月16日には恒例のお祭りです。最近時々進路崇敬念厚い方がお参りになると聞いております。それ位由緒深きお社です。 御祭神はアジスキタカヒコネノミコトと申し上げアジスキは切れ味の良い鋤(スキ)の意で夕カヒコは太陽の子の意で農耕の神様と思われます。 奈良時代(733)出雲風土記には斐提社と有り平安時代の国家の法制書延喜式(927)には斐代神社と有り、江戸時代の書物には八王子大明神、二尺五寸四方東向と大きさが示して有ります。古来よりある滝の名称は八王子滝と呼んでいました。 平安時代、神社は約三万社あったとされ、その内延喜式神名帳に登録されている神社(2861社)を式内社と呼び格式の高さを誇ります。当、韓竃神社も含まれております。この時代、別所・河下の東、奥宇賀の和田・布勢に式内社が有りました。 社頭掲示板 |
斐代神杜 斐代神社(ひしろじんじゃ)由緒記 鎮座地 出雲市唐川町丹田1012〜3 八王子滝の横に鎮座 御祭神 味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 祭日 例祭日4月16日 由緒・沿革 出雲国風土記(733)に、斐提の社と記されているのは当社のことである。 平安時代の延喜式(927)には、斐代神社と記されている。 江戸時代の雲陽誌(1717)には、八王子権現と記載され、「社二尺五寸四方、東向き、古は祭日も定めてありつれども、中古より絶えて今は祭祀の規式もなし」と記載されている。 祭神の味鋤高彦根命の「あじすき」とは、切れ味の良い鋤の意味で農耕の守り神である。明治42年3月韓竃神社に合祀、されど昭和13年4月韓竃神社の境内社として旧来の現在地に移転した。 社頭掲示板 |