出雲国風土記に「出雲社」とある神社。 出雲神社は鰐淵寺が造立されて以後、この地に遷座され、鰐淵寺住職によつて祀られ、一般民間人の信仰の対象となつていた。そして明治3年になつて祭祀が神職側に移され、今日に至つた。 「元は「出雲社」として「八束水臣津野命」を祀っており、唐川に鰐淵寺が創建された後そこに「諏訪神社」が勧請され、別所鰐淵寺創建の頃合祀され、以後「諏訪神社」と呼ばれるようになったのだと思われる。 より大胆に記せば、本来の社地は現別所鰐淵寺境内であり、別所鰐淵寺創建の際帆柱山山中に移され、更に鉱山開発のために現社地に移されたのだと考え得る。」(風姿) |
諏訪神社 諏訪明神 健御名方命なり、本社三尺に三尺五寸南向き、拜殿一間半に三間、祭礼十月廿七日なり、宮山高さ四十間あまりの岩壁あり、傍に高さ三十間周五丈ばかりの丸き立岩あり、世俗是を帆柱石という。 此石のほとりに本社あり、此立石を檣(かち)石ともいう、俚民伝て云鰐淵寺開山智春上人信濃国より来たまうとき、老翁三人迎に船にて出たまい、その後老翁三所へ飛去ぬ、一人は今の諏訪明神なり、彼船具を分ちたまう時當此明神は檣をとり給う、今の帆柱石なりという。 天正十二年造立の棟札あれども鎭座勧請詳ならす、或人の曰【風土記】に載る出雲郡出雲社是なりという、土人白瀧権現とも号す。 雲陽誌 |