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風土記の「都牟自社」に相当する。 旅伏山(427m)に登る途中、およそ9合目にある。 『出雲国風土記』には5カ所の烽(とぶひ)があったと記されている。その一つ多夫志烽(たぶしのとぶひ)で緯度経度(35.421507,132.784061)の地点にあった。 |
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由緒 文徳実録、仁寿元年(851)によれば「速票風別命」を擢んでて従五位を授くとあり、社伝によれば文暦(1234〜35)の頃から旅伏権現、又は旅伏神社、旅伏大明神とも旅中安全の守護神として世人の尊敬厚かった。松平藩江戸勤番には、家中に必ず安全符札を受けて行った。七代治郷(不味)は額面に社号を揮号して寄進、その「旅伏社」の額面は現存している。その称号は亨保年代まで使われた様である。最も古い棟札は「旅伏権現」寛永8年1631年。天文元年(1736)棟札は都武自神社、宝暦9年(1759)は旅伏神社、明治維新まで用いた。明治4年神社取調に復旧都武自神社、明治6年社伺高橋千川が講社活動し、明治13年教会講社創設、神徳宣揚し、隆昌した。「都武自神社縁起」を見ると推古天皇20年(612)、此の山の嶺に勧請し、都武自と称した。そのわけは、神武天皇がわが国を「秋津虫国」とされ、そのつむしをとって社号としたとある。又、「旅伏」と云うのは、神武天皇東征に旅にふす臥して敵を討たれたからであるといふ。多夫志峯烽記(天保3、1832大江春平)によれば都武自別命は志那津比古、志那津比売神の荒御魂で速疾風となって「天地の間を往来し、大御稜威を輝かし給うたと記し、多夫志は冦伏で火の威をおさえる意だとしている。延喜式内、出雲風土記所蔵社神田9畝18歩神領御色地あり、明治4年3月郷社、明治40年2月16日神饌幣帛供進指定、国主藩主信仰厚く、大祭に地頭代参、新酒2樽供進、祭費反引米があった。「式内社調査報告第二十」 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |