都牟自神社
つむじじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】都牟自神社 出雲国 出雲郡鎮座
   【現社名】都牟自神社
   【住所】島根県出雲市国富町 1
       北緯35度25分18秒  東経132度47分5秒
   【祭神】速都武自和気命 事代主命 神倭磐余彦命
       (配祀)八束水臣豆奴命

   【例祭】4月29日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】推古天皇20年(612)山嶺に勧請
       天平5年(733)2月30日「都牟自社」『出雲国風土記』
       仁寿元年(851)9月従五位
       寛永8年(1631)造営
       元文元年(1736)造営「都武自神社」と称
       宝暦9年(1759)造営「旅伏神社」と称
       明治4年「都武自神社」と改称
       明治4年3月郷社
       明治40年2月16日神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「旅伏権現」・「旅伏神社」と称していた
   【社殿】大社造銅板葺
       拝殿

   【境内社】金鵄神社

風土記の「都牟自社」に相当する。
旅伏山(427m)に登る途中、およそ9合目にある。
『出雲国風土記』には5カ所の烽(とぶひ)があったと記されている。その一つ多夫志烽(たぶしのとぶひ)で緯度経度(35.421507,132.784061)の地点にあった。


由緒

文徳実録、仁寿元年(851)によれば「速票風別命」を擢んでて従五位を授くとあり、社伝によれば文暦(1234〜35)の頃から旅伏権現、又は旅伏神社、旅伏大明神とも旅中安全の守護神として世人の尊敬厚かった。松平藩江戸勤番には、家中に必ず安全符札を受けて行った。七代治郷(不味)は額面に社号を揮号して寄進、その「旅伏社」の額面は現存している。その称号は亨保年代まで使われた様である。最も古い棟札は「旅伏権現」寛永8年1631年。天文元年(1736)棟札は都武自神社、宝暦9年(1759)は旅伏神社、明治維新まで用いた。明治4年神社取調に復旧都武自神社、明治6年社伺高橋千川が講社活動し、明治13年教会講社創設、神徳宣揚し、隆昌した。「都武自神社縁起」を見ると推古天皇20年(612)、此の山の嶺に勧請し、都武自と称した。そのわけは、神武天皇がわが国を「秋津虫国」とされ、そのつむしをとって社号としたとある。又、「旅伏」と云うのは、神武天皇東征に旅にふす臥して敵を討たれたからであるといふ。多夫志峯烽記(天保3、1832大江春平)によれば都武自別命は志那津比古、志那津比売神の荒御魂で速疾風となって「天地の間を往来し、大御稜威を輝かし給うたと記し、多夫志は冦伏で火の威をおさえる意だとしている。延喜式内、出雲風土記所蔵社神田9畝18歩神領御色地あり、明治4年3月郷社、明治40年2月16日神饌幣帛供進指定、国主藩主信仰厚く、大祭に地頭代参、新酒2樽供進、祭費反引米があった。「式内社調査報告第二十」

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



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