日沈宮(下宮)は、小野検校家の遠祖天葺根命が天照大神の御神託を受け、大神の御魂を文島(経島)に祀り、のち文島の百枝松を神木として奉齋し、開化天皇の御代に勅を奉じて神殿を創立したもので、風土記にいふ「百枝槐社」である。 神ノ宮(上宮)は、神代以来現社地背後の『隠ケ丘』に鎮座せられていたが、安寧天皇13年勅を奉じて社殿を建立し、いまの地に遷し祀つた。これが風土記にいう「美佐伎社」、式にいう「御碕神社」である。 村上天皇の天暦年中(947〜57)文島の神祠を現在地に遷し、「日御碕」と称した。以來この神ノ宮・日沈宮を総称して日御碕太神宮と称するに至つた。 日御碕神社社家の小野家は、戦前は、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 |
由緒 日御碕神社御由緒記 御鎮座の由来 日しずみの宮 日しずみの宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島ともいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦2年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。 経島に御遷座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞嗚尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり、此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり、命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと云う。 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日しずみの宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平7年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。 かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。 そして、安寧天皇13年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇2年勅命により島上に神殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝しぎ社なり)が村上天皇天暦2年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。 神の宮 神の宮は神代以来現社地背後の『隠ケ丘』に鎮座せられていたが、安寧天皇13年勅命により現社地に御遷座せられ(出雲風土記に見える美佐伎社なり)後「日しずみの宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。 隠ケ丘御鎮座の由来は,神代の昔、素盞嗚尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂はこの柏葉の止る所に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に美佐伎なる隠ケ丘に止った、よって御子神天葺根命はここを素盞嗚尊の神魂の鎮ります処として斎き祀り給うたと伝う、当神社神紋の由来もここにある。 かように日御碕は素盞嗚尊の鎮ります霊地として根の国の根源として中央より厚く遇せられ、神の宮は素盞嗚尊をお祀りする日本の総本宮として厄災除、開運の神と天下の崇敬をうけ今日も崇敬者の跡が絶えない。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
日御碕神社 日御碕神社御由緒略記 御祭神 日沈宮(下の宮)天照大御神 神の宮(上の宮)神素盞鳴尊 御例祭 8月7日 御鎮座の由来・沿 (1)日沈宮 日沈の宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島ともいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦2年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。 経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと伝う。 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来夕日を餞け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。 そして、安寧天皇13年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇2年勅命により島上に神殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝■社なり)が、村上天皇天暦2年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。 (2)神の宮 神の宮は神代以来現社地背後の『隠ケ丘』に鎮座せられていたが、安寧天皇13年勅命により現社地に御遷座せられ(出雲国風土記に見える美佐伎社なり)後「日沈宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。 隠ケ丘御鎮座の由来は、神代の昔、素盞鳴尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂はこの柏葉の止る所に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうくと風に舞い遂に美佐伎なる隠ケ丘に止った。よって御子神天葺根命はこゝを素蓋鳴尊の神魂の鎮ります処として斎き祀り給うたと伝う。当神社神紋の由来もここにある。 かように日御碕は素盞鳴尊の神魂の鎮ります霊地として根の国の根源として中央より厚く遇せられ、神の宮は素盞鳴尊をお祀りする日本の総本宮として厄災除、開運の神と天下の崇敬をうけ今日も崇敬者の跡が絶えない。 御造営の沿革 当神社は上世以来社殿の御造営二十数回、皆勅命又は将軍の祈願に依ったもので、之にても日御碕神社の御神威の一端がうかゞわれるのである。現在の社殿は日沈宮、神の宮共に徳川三代将軍家光公の命により、幕府直轄工事として江戸より工匠を特派し、着工以来十年の歳月をかけ、寛永21年竣工し、三百数十年の星霜を経ている。 構造は、初期の権現造り建築の優秀なることは斯界に定評あり、殊に極彩色の御内陣の天井四壁の絵は狩野派、土佐派の画匠の筆になり、華麗荘重を競って美事である。社殿の全部と境内の石造建物を含めて国家重要文化財に指定されている。 古伝祭に仰ぐ神威 (1)神劔奉天神事 12月31日 素蓋鳴尊、八岐の大蛇を退治て天の叢雲剣を得たまいし時、御子神天葺根命を御使いとして之を天照大御神に奉り給うた故事に由来するもので、天葺根命の子孫で日御碕神社祭祀家たる小野家に伝わる家伝祭である。斎主たる宮司は毎年12月、大晦日の深夜唯一人神山(天一山)に登りて之を行う。 この神事は古代より今日まで絶えたことなく、当夜は雨雪いかに甚しくとも神事の始まると共に空晴れ渡り、いまだ嘗て斎主の祭服を露したことがないという。 (2)的射祭 2月節分 孝霊天皇61年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。時に神の宮鳴動し虚空より白羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。こゝに於て神威を畏み神恩報賽の祭りを執行して現在に至る。かように日御碕神社の御神徳は、天照大御神の日の神としての和魂と素盞鳴尊の奇魂の御霊威を仰ぎ奉りて、古来「邪つ心を払い給う神」「厄除けの神」「産びの神」として、又「家運繁栄、殖産興業、安産、交通安全の守り神」として広く大方の信仰が深いのである。 大祭及び主なる古伝祭 神寄神事 (新年の摂末社祭) 1月3日 爪剥く祭(八朔祭)9月1日 御饗神事 (太上天皇より神田奉納の記念祭)1月7日 神在祭 八百万神の迎送祭 旧10月11日より 神去出祭 17日まで 釿始祭(日沈宮造営記念祭)1月11日 和布刈神事(海ねこわかめを奉る祭) 旧1月5日 大祓行事(厄払いの行事)12月31日 的射祭(前記)2月節分 神劒奉天神事(前記)12月31日 神幸祭(夕日の祭)8月7日 主な摂末社 林神社(摂社) 天葺根命(天冬衣命) 境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り給うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す) 現小野宮司は実に九十七代の後商に当る。 熊野神社(末社)伊弉冊尊 境外、宇竜港の権現島(蓬来島)に鎮座す。毎年旧正月5日の和布刈神事は有名である。 宝物 (国宝) 源頼朝公寄進の白糸威甲胃一領(鎌倉時代) (重文) 名和長年公寄進の藍草威腹巻一領(南北朝時代) (重美) 小野繁慶太刀一振(徳川初期) (県文化財) 出雲国風土記(日御碕本) (同右) 耕雲明魏日御碕神社造営勧進記(室町初期) (同右) 源義家公寄進の薫章威喉輪=現在日本最古と云われる(平安朝中期) (同右) 塩谷高貞公寄進の縹糸威肩白四十八間筋兜(室町初期) (同右) 白糸威肩紅喉輪(室町末期) (同右) 野田善四郎寄進種ケ島銃一挺(日本現有三個の一)その他甲胃刀劒類多数あり、又古文書の多数保存されていることでも斯界で有名である。 附近の古蹟・名勝 隠ケ丘は今も素蓋鳴尊の御神陵地として尊崇されている。尚神域の附近から柏の葉を印した化石が出土するが、之を『神紋石』と称する。 経島 神社附近海岸の経島は、往昔日御碕神社『日沈宮』御鎮座の霊域として、毎年8月7日、夕日の祭典のため神職が渡島する外は、古来何人も登るを許されぬ島である。 全島悉く柱状節理をした石英角班岩の岩層から成り、恰も万巻の経文を積み重ねた様で一に「お経島」とも云う。 更に又「海ねこ」の産卵、繁殖地として全国的に著名で、天然記念物に指定されている。 又この附近一帯の海でとれる「和布」は「海ねこ」との神話に関連し古来「日御碕わかめ」として世に喧伝されている。 日御碕灯台 神社の西北方400m、日御碕半島の突端に聳立していて、その高さ約40m、東洋一の称がある。 日御碕神社社務所 (島根県大社町日御碕) 由緒書 |
日御碕神社 日御碕のバス停留所からすぐの石鳥居をくぐると、緑の老松に囲まれた楼門と社殿が美しく目に映ります。 鎮座の日御碕神社は、主祭神天照大神を祀る「日沈宮(ひしずみのみや)(下の宮)」と主祭神・素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る「神の宮(上の宮)」からなり、奈良時代に編纂された『出雲国風土記』に「美佐伎社」、平安時代に編纂された『延喜式』に「御碕社」、とある古社です。 平安末期(12世紀)には、すでに代表的な修験の場であるとされ、「伊勢大神宮は、日の本の昼を守り、出雲の日御碕・清江の浜に日沈宮を建て日の本の夜を譲らん」との天平7年(735)乙亥の勅にある夕日の崇拝地として、皇室はもちろん、代々の幕府、諸将からも崇敬され、大名、諸将からの寄進(宝物)も多くあります。 非常に多くの社宝を所有しており、主なものとしては国宝の「白糸威鎧兜(しろいとおどしよろいかぶと)・大袖付(おおそでつき)」をはじめ、重要文化財「藍葦威腹巻(あいかわおどしはらまき)」、さらに貴重な古社本として県の文化財に指定されている尾張徳川義直寄進の『出雲国風土記(日御碕本と呼ばれている)』などがあります。 現在の社殿は、日沈宮、神の宮ともに徳川三代将軍家光の命により、寛永21年(1644)に建てられたもので、両宮とも平入の本殿が幣殿(へいでん)を通り拝殿に続く権現造(ごんげんづくり)(東照宮造)です。本殿内部の天井と四壁に描かれた狩野(かのう)、土佐(とさ)両派の画匠による絵はすばらしいです。 江戸時代初期の貴重な建築として、昭和28年(1953)に社殿及び石鳥居、石灯籠が重要文化財に指定されています。 神の宮(上の宮) 素盞嗚尊が祀られている神の宮は、現社殿の背後の隠ヶ丘(かくれがおか)に祀られていたものを、約1500年前(安寧天皇13年)に現在地に遷(うつ)したと伝えられています。 神の宮も日沈宮も、権現造(ごんげんづくり)と呼ばれている社殿建築で、徳川家康を祀る日光東照宮等と同じ形式です。両社ともに朱塗りの社殿で、蟇股(かえるまた)などの彫刻や彩色も鮮やかです。また、正面に拝殿があり背面にある本殿との間に幣殿(へいでん)というつなぎの役目を持つ建物で結ばれています。また両社の屋根は檜皮葺です。 神の宮本殿は、平成25年に屋根の葺き替えと金具補修、塗装の塗直しが行われました。 日沈宮(下の宮) 日沈宮は、近くの海(清江の海)の日置島(経島(ふみしま))に鎮座してあったのを村上天皇の勅により、天暦2年(948)に現在地に移されたもので、天照大神が祀られています。 日沈宮、神の宮ともに拝殿、本殿の構成を地形に合わせ、高低差を巧みに利用して配置されています。 日沈宮拝殿は、日御碕神社社殿の中でも最大級の建物で、内部は上段の間と下段の間に分かれており、古文書によれば上段の間をかつては「神楽所」と呼んでいたとされます。 日御碕神社は海が迫っており、また、その方向が西向きであることから風の影響も多く受ける立地であるため、これまでに幾度となく塩害や大風の被害を受けています。平成24年に神の宮本殿、平成25年に楼門と被害を受け、今回平成25年から28年まで修理事業を行っています。専門家によれば、日本で最も過酷な場所にある国指定建造物であるとも言われています。 出雲市HP |