大野津神社
おおのつじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大野津神社 出雲国 秋鹿郡鎮座

   【現社名】大野津神社
   【住所】島根県松江市大野町243
       北緯35度27分56秒、東経132度55分5秒
   【祭神】須佐之男命
   【例祭】9月 30日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「大野津社」『出雲国風土記』
       寛永12年(1635)5月再建
       寛文7年(1667)造営
       明治4年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「津森大明神」「角森大明神」と称していた
   【社殿】本殿大社造曽木葺
       幣殿・拝殿

   【境内社】新宮社・日吉神社・日御碕神社

出雲国風土記の「大野津社」に相当する。
宍道湖に突き出た岬に鎮座している。
この地は大野氏の根拠地として、戦国時代に尼子氏につき、又毛利氏についていた。舶地であつた関係上戦乱の地になつて一時衰亡していたが近世初頭再建された。


由緒

大野津神社由緒
当社は式内の古社で(今から一千年前延喜式神名帳登載)この地方に人が住みついた古い時代から里人が奉祝崇敬した名社である。大野灘は大昔から湖北の重要な港であったので「津」という名が起こり、当社はまさに海陸交通の守護神でアった。風土記の神話にある内神社の神が大野で狩りをされた頃もここから上陸されたであろうし、中世大野城が湖北大野の地に築かれたのもこの港があったからであろう。昔から稲作に最も大切なものは水であったがたまたまおとずれる干天続きの年には当社の「蛇骨」を湖上に奉斎して雨乞のお祭りが斎行され、近郷近在の人々が大勢参拝して盛大に行われた。当社は、かく農耕の守護神として、また、厄除安全の祈願所として古来人々の畏敬信仰の深いお社である。寛永9年7月16日、米国の神道研究者メーソン博士が社参、社伝、「雨乞神事」等を調査海外に紹介された。現在では、祭神の御神徳を敬仰して年頭に厄災退散・交通安全の祈願祭を斎行している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



大野津神社

一、御祭神 須佐之男命
一、御由緒
 当社は天平5年(733年)に撰進された出雲国風土記に、大野津社と記されており、後の延喜式神名帳にも登記された古社で、古来より里人が奉祝崇敬した名社である。
 大野灘は宍道湖北岸の重要な港であり「津」の名が起こるが、当社は海陸交通の神である。また、農耕の守護神でもあり、干天続きの年には、雨乞神事が行われた。さらに、厄除安全の祈願所として、人々の畏敬信仰の深いお社であった。
 寛永12年(1635年)5月、秋鹿郡吏だった岸崎時照は蛇骨を拝み崇敬の念を起こし、大野村中の人々と力を合わせ社殿を建立し、9月晦日を祭日と定めた。
 現在の祭神の御神徳を敬仰し年頭に厄災退散・交通安全の祈願を斎行している。

社頭掲示板



大野津神社

大野津神社の御祭神は須佐之男命です。
当社は式内の古社で(今から一千余年前延喜式神名帳登載)此の地方に人が住みついた古い時代から里人が奉祝崇敬した名社です。大野灘は大昔から湖北の重要な港であったので「津」という名が起り、当社はまさに海陸交通の守護神でありました。風土記の神話にある内神社の神が大野で狩をされた頃もここから上陸されたであろうし、中世大野城が湖北大野の地に築かれたのも此の港があったからだと思われます。
昔から稲作に最も大切なものは水でありましたが、たまたまおとずれる干天続きの年には当社の「蛇骨」を湖上に奉斎して雨乞のお祭が斎行され、近郷近在の人々が大勢参拝して盛大に行われました。
当社は、かく農耕の守護神として、また、厄除安全の祈願所として古来人々の畏敬信仰の深いお社でもあります。
寛永3年9月5日時の藩主松平直政公が狩の途中社参され、蛇骨上覧のことが旧記にしるされています。昭和9年7月16日、米国の神道研究者メーソン博士が社参、社伝、「雨乞神事」等を調査、海外に紹介されました。
現在では、祭神の勧神徳を敬仰して年頭に厄災退散・交通安全の祈願祭を斎行しています。

社頭掲示板



特殊神事「雨乞神事」

当社では、当地が干魃に遭った際に「蛇骨を湖上に奉斎する」という雨乞神事が特殊神事として行われていたとされ、近年では昭和9年(1934年)と昭和14年(1939年)に行われたそうです。由緒書によれば以下のような方法だったとされています。
・まず、近郷の神職が身を清めて社殿に上る
・これから「二夜三日の祈願」と称して3日連続の祈願を行う
・このとき社殿に納められている蛇骨を正面に蛇頭を安置する
・その前に蛇骨を飾り、神職はそれに向かって大祓祝詞を上げる
・3日目の朝には蛇骨の一部を竹籠に2個に納め、鳥居のついた箱型の台に乗せる
・4人の供奉員が台を担いで湖岸に運ぶ
・待機している4隻の船の一つに台を安置して、神職と供奉員が船に乗り込む
・他の一隻は衣裳船で、これには楽師らが乗り込む
・残りの2隻には各集落より選出された若者十数人が乗り込み、後に参観の人々が乗った船がついていく
・湖上に船が出ると、太鼓や笛の音と共に漕手が掛け声を響かせる
・湖上に出た船は西南に進み、4つの山々を結ぶ線上を目指す(この交点の当たる湖底には石鳥居があると伝えられる)
・神職が船上に安置された蛇骨の前で祝詞を上げる
・次に蛇骨の入った籠に各々一枚の白木綿をかけ、これを静かに湖底に向けて下ろす
・一通り雅楽を奏上した後、神職及び供奉員・若者たちは裸体となる
・若者たちは神職らが乗っていた船の両側に漕ぎ寄せ、水桶に水を汲んで神職らに浴びせかける
・このとき、神職らの乗る船の漕手は水がかからないように必死に逃げる
・また、若者らは神職らを追い込むように必死に水をかけようとする
・神職らが追い詰められて水をかけられると、息が止まるばかりとなる
・神職らが悲鳴を上げるほどになると、若者らは水をかけるのを止めて一同は身体を拭く
・その後、各々は衣装を着て、無言のまま神社の境内を目指す
・すると、神社が見えるころに晴天だった空に暗雲が湧き出し、やがて雨が降ってくるという
・船が神社に着くと、若者らは見物客に水を浴びせかけながら騒がしく逃げ去っていく
・神職らは蛇骨を本殿に納め、御礼の祝詞を上げる
・ここで見物客らは帰路につき、神事に参加した人々は神酒を酌み交わしながら賑やかに語らう
・こうして一連の神事は終焉を迎える

人文研究見聞録



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