出雲国風土記の「許曽志社」に相当する。 古くは神領もあつたが、秀吉時代に没収されて僅かな土地が残されているにすぎなかったが、松平氏が藩主になつて崇敬の厚い神社となつた。 江戸時代の中頃までは社地は現在地の南方200mの平坦地(吉曽志字元宮なる地名あり)に鎮座していたが、貞享元年(1684〉北方松尾山の麓に移遷した。 参道には狛「犬」ではなく、猿や鶏が置かれている。 |
由緒 許曽志神社由緒略記 御祭神猿田毘古命は「狭田国=さだのくに」の開発の祖である佐太大神と同一神であり、その御神績から、産業振興、農耕の守護神として、記紀に記された天孫降臨の道案内を務めたことから「道しるべ」−交通安全の守護神として、また、この時に出会われた天宇受賣命と結ばれたことから「縁結びの神」−結婚安産の守護神として、また、古くから「白鬚大明神」とも称し奉り延命長寿の守護神として尊崇されている。創祀年代は不詳であるが、「出雲風土記」には「許曽志社−在神祇官」と記され「延喜式」には「許曽志神社」として記されている古社である。古くは現鎮座地の南方約300メートルの地(記念碑建立地周辺−地名を「元宮」という−昭和60年圃場整備事業により畑地が田地にかわった)に鎮座されていたが貞享元年(1684年)現鎮座地「松尾山」へ奉遷した。創祀以来当地方民はもちろん、歴代国主の崇敬篤く、多くの神領があったが中古没収されてわずかとなり、その名残りが地名に残っていた。(宮田、神楽田)松平家が藩主となってから更に敬神の志篤く、初代直政公も度々参詣したとの文書が残されている。三代綱近公は眼病の平癒を祈って自作の天満宮木像を奉納、同時に公の夫人は羽子板を寄進した。この木像と羽子板は当社の社宝として保存されている。また、社殿の建立修復に際しては藩費の支出、貸与、収益興行の免許等の特権の付与のあったことも諸文書に記されている。明治5年3月「村社」に列せられ、大正11年7月には由緒の古いことから一躍「県社」に昇格になった。昭和59年は現「松尾山」へ奉遷以来300年に当たる年であったので松尾山奉遷300年祭を斎行、元の宮地址へ記念碑を建立し、「許曽志神社由緒記」を刊行した昭和63年4月には社務所を建て替え新築した。次期修復遷座祭は平成10年の予定である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
許曽志神社 由緒 創祀年代は不詳であるが出雲國風土記及び延喜式に記された古社で祭神は当地方開発の祖神であるとともに農耕、延命長寿、結婚、安産交通安全の守護神として尊崇されている 大正十一年七月由緒古き故を以て「村社」から一躍「県社」に昇格になった 往古は現鎮座地の南、記念碑建立地周辺(地名を元宮と言ふ)が社地であったが貞享元年(1684年)4月現地へ奉遷した 社頭掲示板 |
許曽志神社 許曽志神社のご神徳について 御祭神 猿田昆古命は、天孫降臨のとき、天の八街 ( あめのやちまた ) に瓊瓊杵尊( ににぎのみこと ) をお出迎えになり道案内をされ、そのとき出会われた天宇受売命( あめのうずめのみこと ) と結ばれた縁によって私達の祖先が二神を合祀し、敬神の誠をささげて来ました。 猿田昆古命の 「 猿田 ( さだ ) 」 は 「 狭田 ( さだ ) 」 に通じ、田畑五穀の守り神として国土を開拓し、狭田の国にあって産業んお信仰につくされた神として信仰されてきました。 また、天孫の道案内をされたことから 「 道しるべ 」 の御神徳があるといわれます。 その 「 道 」 とは 「 人倫の道 」 であり 「 産業の道 」 であります。 天宇受売命は、天の岩戸を開かれ、猿田昆古命とともに天孫降臨を成就せられた神で、「 みちしるべの神 」 「 むすびの神 」 としてそのご神徳はかぎりなく深く大きいものであります。 「 古曽志 」 の郷の名は、両御祭神が導きの神として、郷の人々と喜びも悲しみも共にされ、郷の人々のことは何一つ知らないことはない・・・「 悉く ( ことごとく ) 知る 」 から 「 こそし 」 となったと、当社縁起にあります。 社頭掲示板 |