内神社
うちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】内神社 出雲国 秋鹿郡鎮座

   【現社名】内神社
   【住所】島根県松江市大垣町746
       北緯35度29分23秒、東経132度55分51秒
   【祭神】和加布都努志命 下照姫命
   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】霊亀元年(715)高野山の頂に光輪を見て神垣を結ぶ
       養老元年(717)今の宮地に宮殿造営
       天平5年(733)2月30日「宇智社」『出雲国風土記』
       弘治2年(1556)「高宮」と称
       天正10年(1582)「足鷹大明神」と称
       明治5年郷社
       昭和2年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高宮」「足高大明神」「足鷹大明神」と称していた
   【社殿】本殿大社造檜皮葺
       幣殿・拝殿・神門

   【境内社】稲荷神社・三穂神社・蘆原神社・霊神社・阿奴牟神社
        龍神祠・木の山神社・牛頭天王社・奴多之神社・王子権現社・床常荒神祠


出雲国風土記の「宇智社」に相当する。
本宮山の中腹に鎭座する。
社傳によると霊亀元年(715)高野山の頂に光輪を見て神垣を結んだのが創めで、養老元年(717)今の宮地に移し、宮殿を再興したという。古来より一社別格で杵築・佐陀両社の支配を受けずとあり、松江藩の四祈願所(杵築、日御碕、佐陀、当社)の一つであった。


内神社

式内社 内神社 出雲国 秋鹿郡鎮座
現社名 内神社・高野宮
旧社格 県社
御祭神 
和加布都努志命 ( わかふつぬしのみこと )
下照姫命      ( したてるひめのみこと )
和加布都努志命・下照姫命ともに大国主命の御子神様で、父神様を扶け国土経営に大きな功績を残された神様です。
御創立
約1290年前の霊亀元年 (715) 当宮の北側に聳え立つ女嵩山の峰に、夜々月輪の如く光を放つものがあり、村人達神の降臨に違いないと、神垣を設けお祀りしたのが、当宮の始まりとされています。
その後、神の神威があまりにも強すぎることを畏れた住民が、神占により養老元年 (717)現在地に遷御し、以来今日まで此の地でお祀りされております。 
このときから女嵩山は本宮山と称されるようになっております。
御由緒
927年、国により修撰された神明帳に記載されているいわゆる式内社であり、また出雲国風土記所載の古社で、明治・初期迄は旧大野郷中 ( 現大野町・上大野町・魚瀬町・大垣町 ) の総本社となっていました。
中世には、京都 「 聖護院宮 」 長州 「 毛利氏 」 の祈願所として、社領の寄進等手厚い待遇をもって処遇されております。
近世には出雲国主 ( 堀尾・京極・松平各氏 ) 塁代の松江藩御所願所四大社の一つとして下社家以下数十人の社職人が配置され、国庁から社頭に禁制札が建てられる習わしの神社であり、また出雲国二大社 ( 出雲大社・佐太神社 ) の支配を受けない一社一例社の特例を中世から継続して受けて来たか区別の神社でもありました。
近代には、県社の指定を受けておりました。

社頭掲示板



内神社

第一節 縣社内神社
当社は八束郡秋鹿村大字大垣宇高宮、即ち宍道湖と日本海との中間の高岳、風土記秋鹿郡大野郷安志高野とある山の麓の鎮座で、御祭神は和加布都努志能命・下照姫命の御二柱である。この二柱神は共に大己貴命の御子神で、男神は農耕の功神であり、女神は高比売命ともいひ、天若日子命の妃で後に合祀つた神であります。男神の鎮座は風土記大野郷の條に、この神の御狩の物語が見えてゐるのに起原するが、当時未だ社殿がなく、安志高野山の頂の樹林を以て神社としたものなること風土記に明記されて居ります。その後かかる状態は相当久しく続いたであらうが、中世以降は今日の如く山腹に社殿を営み奉ることとなつた。その年代には明かな伝もないが、慶長元年にかの山頂の社迹より鎌倉時代の古鏡を発見したことがあり、爾来安祀高野山は本宮山と称し、当社の社号は旧によつて足高社とも高野宮とも称して来たのであります。
当杜は式に内野神社、風土記に字知社と見ゆる御社で、ウチは大野郷の旧称を内野と云つた名残であるから、從つて御鎮座も内野と云つた時代でありませう。朋治4年3月足(芦)高社もしくは高野宮の称をやめて内神社に復し、郷社に列せられたが、昭和2年10月18日縣社に昇格した。乃ち境内は三千九百二十三坪。一畑電車の高野宮駅を下りて、湖畔の一ノ鳥居よリ二十町、谷間の田疇を分けて登れば山麓に達する。数十級の石階を上ると二ノ島居があつて境内は廣澗清爽。老松の下に諸殿相連らり、後には鬱蒼たる森を負ひ、前には翠葉茂林の梢を越して宍道湖の煙波を瞰し、転た形勝の地であります。又社殿は大社造一丈五尺四方の本殿に、向拝・通殿・拝殿・御供処・惣門・常盤門・大野大垣両氏の霊社等七社の境内神社等があります。
さて大野郷は鎌倉時代から大野大垣両氏が地頭であり、聖護院が領家であつたので、同院より社領三百貫を附し、又造営を行はれたこともあり、殊に大野・大垣氏は当社を氏神と仰いで崇敬を抽でたが、毛利氏に至り、元亀2年輝元は社領十五石と定め、春秋の祭に代参を立て神馬を献ずる例を開き、又黒糸縅鎧一領、大鳥居一基・長巻一口・長谷部国信太刀一口・青銅千疋等を献じた。終わりの二点は元就病気平癒の報賽で波多野蔵人を使として献じたのであります。此の外毛利の一族或いは宍道政慶等の如きその旗下の諸将の祈請報賽は連年相続き、堀尾氏も亦神領神主屋敷の安堵を行ひ、神酒屋、職人等の権利を特許して待遇を篤うした外、卯花縅の鎧等を献じ三十六回に亘る祈願を捧げて居ります。而して京極氏、松平氏またこの例を襲ひ、所謂一社一例の社格として、恒例の祈願、社領の寄進、造営の奉仕、宮附諸職人の許容等、その待遇は杵築・日御碕・佐陀・高宮といふ順位であったと見えて居り、従って歴代藩主の社参寄進も頗る多く、元治元年3月晦日には出雲十郡の郡役人が連署して、供米を献じ祈願を畢めて居ります。しかも当社の例祭は今日では10月17日であるが、昔は佐太神社の御座替祭の当日で、殊に当社でも御座替祭を執行した。乃ち出雲表の本場は佐陀庄内で古江・生馬の両村がそれであるが、隣村なる当社の鎮座地にも波及してゐたので、従って当社でもその神事を執行したこと、早くも天文の古縁起に見えて、兎に角佐太神社との間には数々深い関係があつたもののやうであります。
なほ当社社司家原家は小野氏で、泉州家原を苗字の地とし、後伏見院の御宇、右衛門尉正五位上家原勝久は当国朝郷の地頭職となり、興国元年6月25日後村上天皇の綸旨を蒙って淀本庄十分一地頭職を賜つた。而して孫の中務尉正五位上勝憲は貞治6年当社大宮司職を兼ね、その子治部少輔正五位上勝昌も亦兼帯した。然るにその子中務尉正五位上忠勝に至り、地頭職を失ひて専ら当社の大宮司を奉仕し、爾来勝元・英勝・勝盈・勝重・秀勝・貞勝・勝政・信勝・興勝・敬勝・好勝・勝如・勝延・勝詮・勝盆・益雄と傳へて代々正五位下、從四位下、從五位下等に叙せられ、現社司(輝男)に至つて居ります。

神国島根



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