出雲国風土記の「御井社」に相当する。 拝殿に「式内社 御井神社」「秋鹿神社」「姫二所大明神 八幡宮」の3額がかかっている。 もとは井神谷にあつたものであろう。今は秋鹿社から五十間離れてもとの社跡の傍に井があることから、御井の名が起つたものである。罔象女命を祀る |
秋鹿神社由緒 本社は、風土記に載する神社で、記に秋鹿と名つくる所以は、「郡家の正北に秋鹿日女命坐す故秋鹿という」云々。故に松平藩の時代にも社殿の再興修繕の際には米穀を寄附して費用を補助する例であったが、寛保3年其の例絶、明治5年3月村社に列せられる。本社祭神。秋鹿日女命(一名蛤貝比売命と称し)は、嘗て天勅を蒙り大巳貴命(大国主命)の火傷を療し給わんとして、此国に降り給いて其の任を果し給う。是の御功績甚だ顕著にして、やがて大巳貴命の逐に万民の為、大に利用厚生の道を開き給える一の原動力と成りたる故、此の御縁由に依て永く此の地に鎮座した給えるなり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
秋鹿神社 由緒記 鎮座地 松江市秋鹿町2853番地 祭神 秋鹿日女命 境内地 7583坪 創立年紀は不詳であるが、風土記所載の古社であり、記に依れば、秋鹿と名つくる所以は、郡家の正北に秋鹿日女命 坐す故に秋鹿と云ふ。依って該社再興或いは修復等の節には、郡中より 現米七俵を寄附する例あり。然るに、寛保3年度より、其例絶ん、明治5年3月、村社に列せられる。 秋鹿日女命は、天勅を蒙り、大己貴命の火傷を治療給はん為に此国に降り給ひて、其任を果し給ひ、御功績甚だ顕著であり、此の御功績ぞ即ち、大己貴命の遂に天下蒼生の為、大に利養厚生の道を開き給へし一の原動力と成れり。此の御縁由に依って永く此地に鎮座し給ふなり。 相殿 御井神社 祭神 罔象女命 延喜式内の社なりと雖ども、中古衰頽して秋鹿神社に合祭す。其年紀不詳、今の秋鹿社より南方距離90m、旧跡猶在り、森有 現在民有地、其中に神井三ツ有、古老の伝説に曰く、「井上の山の端に平地有り、此所に社有りしに、衰頽せしにより秋鹿社に合祭す。」と云ふ。三の井は、近年迄近隣住民の飲料とす。 又、中古より、社号を、秋鹿姫二所大明神と称するは、罔象女命と秋鹿日女命と坐す、所以なり。 相殿 八幡宮 祭神 譽田別命 八幡宮は、往古、秋鹿川の河畔に鎮座なりしが、某年、洪水の為、社地流亡したるを以て当社に合し奉れり。其年代不詳と雖ども、秋鹿神社 貞享3年の棟札に依れば、或いは此年ならん。 社頭掲示板 |