出雲国風土記の「法吉社」に相当する。
神魂命の御子である宇武加比賣命が法吉鳥(鶯といわれる)になって飛び渡り、ここに静かに坐したからホホキと名づけたと地名説話に見える。
ウムカヒは大蛤のことを表すといい、『古事記』にはオオナムチが兄弟神に迫害され大火傷を負った時、カミムスビがこの神を遣し、貝殻の粉を集め蛤の汁で溶いて塗り治療したと、古代火傷の民間治療法の説話を残す。 旧法吉村と旧春日村との境界にあたる宇久比須谷(鶯谷)と称するところに鎮座していたが、堀尾氏が松江城を築城した江戸初期に西南約七町の現在地に移す。旧跡には今も礎石が残つている。 |
由緒 法吉神社御由緒 延喜式内社出雲風土記所載の社にして主祭神宇武加比比売命は大国主の兄八十神の厄に遭い火傷をされた時に神産巣日命の大命を蒙り支佐賀比比売命と共に降臨、協治療の大功を奏し給ひ、後此地に法吉鳥(鶯)と化して飛び渡り給う、古来宮所を鶯谷と称す。創立は白鳳年間と言う。永禄年間現在地に造営、城主の崇敬厚く明治5年郷社に列す。昭和56年島根県特別神社に指定せらる。杜域の樹木大木たるが故に大森大明神と称し奉りき、一の古伝に往古奉幣使参向の事あり、その時菊花御紋章を神紋となす事を許され給ひしとて今尚これを用ふ。合祀2栓の当地関係由緒詳ならざれども人皇48代称徳天皇の御宇天平神護元年乙巳九月朔日の勧請と伝う。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
法吉神社 式内社 法吉神社御由緒 祭神 宇武加比比売命 (配祀 天児屋根命 天太玉命 延喜式神名帳に記載せられ給い又出雲国風土記に神祇官に在りと記され給う神祠に坐せり。謹で神代史を按ずるに宇武加比比売命は神魂命の御子に坐して大己貴命(大国主命)八十神の災いに遭い坐せり時に大命を蒙りて其御痛所を治療し給はん為支佐賀比比売命と倶に降臨し後此地に移り坐して経国の大神業を翼賛し給いつつ鎮まり給えり。命の御事跡斯の如く坐しませんが故に畏くも文徳天皇の御宇嘉祥4年6月神階正六位上を授け奉り給い延喜御制には其の功績に依り官弊小社に列し給いたり。古来其の宮所を宇具比須谷と称す、此所に御来坐ませりし時鶯に化して御来坐ませし御故事に依ってなり。又出雲風土記には命のホゝキ鳥に化して飛渡り此所に鎮座せり故に法吉と云う。降って永禄頃に至り戦争あり村内なる白鹿城同6年9月陥落せり其の影響御社域に波及し■く御仮殿に御鎮座あり後現今の地に造営し奉れり。今猶祭神古墳の背面御旧跡に礎石残存す。当社は創業年代不詳なれど古伝に依れば白鳳年間創立なりと。配祀天児屋根命 天太玉命は人皇48代称徳天皇の御宇天平神護元年9月朔日の勧請なりと。 嘉祥4年9月21日奉幣使参向の事ありて其の時菊花の御紋章を御神紋と為す事を許され給えり。御社域樹木森然たるを以て大森大明神と称し奉りき。明治5年3月郷社の列に入り給う。明治43年10月10日島根県告示第380号依り神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せられたり。 社頭掲示板 |