出雲国風土記の「爾佐加志能爲社」に相当する。 旧社地は野井沖に浮かぶ築島に続く加志島と伝えられている。 加志島とは、築島の梶の鼻から千切れかかっているように見える部分のことではないか。(地図参照) 長元7年(1034)8月の大風で吹き流され、当浦日御崎神社に合殿となった。 入り口右手に巨岩2つあり。石段左の巨岩には石段が掘られており、もとはこの上に何かあったか。 爾佐加志能為神社の旧社地は漁業組合辺りだったらしい |
爾佐加志能為神社 現在、野井の神社といえば、「出霊国風土記」、そして「延喜式』にみえる古社「爾佐加志能為神社」である。同じ「爾佐」を冠する爾佐神社とは関係か深かったと思われ、立地も近いことが想定される。「爾佐加志能為」の社名の「能為」が現地名(野井)であることも気がつくと思う。 宝永7(1710)年の「雲州四十二浦之詠歌」にみえる野井の神社は日御崎神社であった。当時、古代の爾佐加志能為神社の系譜を引く、加無利明神(神守大明神)は零落し、椎の木を祭っていた。当然、参拝客は社殿をもつ新しい日御碕神社に参拝したが、明治に入り「延喜式」重視により、日御碕神社に、「加無利明神」を相殿にし、社名を古代の「爾佐加志能為神社」にして今日に至っている。「爾佐加志能為神社」の旧社地は野井の漁業組合附近てあった。 地域祭礼として一月第二日曜に行われる野井とんど、宮練がある。かつての旧社地字「神守様灘」に隣援して字「どんどが鼻」があるので、野井のとんどは江戸時代にざかのぼることがわかる。 島根半島四十二浦巡り再発見研究会 社頭掲示板 |