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標高325.5mの嵩山山頂に鎮座している。『風土記』の時代には軍事連絡の機能を持った狼煙台である烽(とぶひ)、布自枳美烽が置かれ、宍道湖を西へ30Kmはなれた旅伏山(平田市)の多夫志烽と東へ13Km離れた安来市車山の暑垣烽と結び、軍事を報知連絡していたと伝えられる。 神社の後弥仙に影向石と号する神石がある。往昔宮社未だ建立なき時、此石を神体として祭ったという。 この影向石と称する高さ四尺程の石神体の小祠は俗に石奉殿(いしほうでん)と呼ばれ、多気社の旧蹟とも言われている。(社殿背後の高見に小祠あり石嵩神社とある、このことか。 また多気神社は合祀とも言われている。 往古多気神社とともに2社あったが合祀され、多気神社の「たけ」からこの山が嵩山と呼ばれるようになったという。 明治40年9月26日門江神社を合祀 |
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由緒 布自伎美神社由緒 本社は延喜式所載の古社にして、都留支日子命を鎮祭す別に合殿あり式内多気神社は大已貴命を祭るその他合祀紙式内門江神社小祀縁結社あり出雲風土記に「須佐男命ノ御子、都留支日子命ノ詔リタマワク吾敷キマセノ山口ノ処ナリト詔ヒテ山口ト負ハセ給ヒキ故山口トイフナリ」とあり「風土記ニ布自伎爾社トアリ又布自伎美山モアリテ其山二座神ナリ東川津村ノ山高ナル嵩大明神是也大穴持神ヲ祭ル」といえり社伝の古文書によれば都留支日子命布自枳美山に宮所を領め吾吉所なりと詔り玉ふとあり社伝に「おいて」創筆の由来を見るに最初は素より社殿なく大神は此山全体に清清しき神奈備に御親ら御開顕玉える幽宮にし鎮座ましましと活気勇ましく嵩の神山を命の光輝くたる神威により永久に領有き給いて神代より鎮り玉ふ後世に至り雄略天皇(第21代)の御宇に初めて顕宮を建立したものと考察される。なほ、寛永年間(江戸時代1624年)頃までは山7分以上社有であった多気神社後方弥仙に影向石としょうする石神体の小祀あり世、俗、石の宝殿としょうす、式にも風土記にも布自枳美社、多気社と2社ありと見れば往古には2社あれど天永2年(平安1110年)に1社を建立して合殿したとある。本社は明治初年郷社に列せられ大神の御神徳は高大で武徳の守護神として御霊験顕著なり国司崇敬社にして松平家の尊信厚く鼓の奉納あり弓矢の大神として武人の崇拝頗る盛んなり又神社縁記に「藩士松平氏の客家老三谷半太夫の祖正徳4年(江戸1711年)当社大神の神助により一命を助かり為に神社を再建し宝剣を納め代々信仰す」とあり由緒異常なる古社にて棟札に「天永二辛卯歳神主吉岡次郎左衛門」とあるは現宮司(吉岡惇雄)の祖先にしてなんじ子孫相次いで当社に奉仕している。布自伎美峰山は海抜326mにして山頂めがけて四季の眺望最高にして境内より東へ十歩淡彩をこらせる中海の海波慢々として東南の山麓お洗ひ富士を思わせる小さな出雲富士きぜんとして東天に天橋立を模して拡大なる如き夜見ヶ浜の延々なる清影の水に映して横斜せるを見る西は松江市及び静に美容を装したる女性湖水に嫁島眼下に眺め遠くは斐川平野より出雲石見の境なる佐比売山を双眸の中に収むべく又せみ色に覆われ高低参差たる雲南群山の遠影を隅なく展望する更に眺望すれば日本海面双眸掠め晴天の日には隠岐の国をも煙波の中に望まるるのみならず鑑識家の言にいわく嵩山は山体の幾何的体式と山容の美術的形式と樹林青々の美彩とを巧に調和して一種の山岳美を具象せる之をハルマントンの所謂第一次形式美の点より観察すれば土壌安排の様式円滑にして山じわを畳める細大斜線の配合また最隠和なれば大いに静的量美の発揮に成功せり伝伝と実に神人の感賞措かざるまのあるも宜なりというべし。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |