勝日神社
かつひじんじゃ
富田八幡宮 境内社
所在地 社名















   【延喜式神名帳】勝日神社 出雲国 意宇郡鎮座

   【現社名】勝日神社【富田八幡宮境内社】
   【住所】島根県安来市広瀬町広瀬85
       北緯35度21分40秒、東経133度10分12秒
   【祭神】大己貴神 (配祀)須佐之男神 稻田姫神
   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「加豆比乃社」『出雲国風土記』
       嘉祥4年(851)正月正六位上
       保元年間(1156−59)現在地勝日山に奉遷
       寛政7年(1795)造営
       明治5年3月富田八幡宮と同様に郷社
       明治5年8月社格が廃せられた

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと富田月山 古名勝日山に鎮座
        保元年間(1156−59)現在地勝日山に奉遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       

   【境内社】

八幡本殿の向かって右手奥に鎮座。
風土記の「加豆比乃社」に相当する。
古くから月山頂上の勝日高守神社の里宮として鎮座。
もと富田月山 古名勝日山に鎮座していた。
保元年間平氏の將悪七兵衛景清当国の守護となり、当山に居城を築いた。(注、現在の山中(ヤマナカ)御殿跡附近にあつたらしい)、神霊と居を同じくする事を恐れ、奥宮を城内鎮守とし、当社を御神託により現在地勝日山に奉遷した。その後武家政治下の結果として当時の武神八幡宮の信仰が盛大となり、八幡宮が富田八幡宮として、勝日神社がその境内社として祀られる結果となった。


由緒

富田八幡宮略記
由緒
社伝に拠れば欽明天皇31年に創立とあり、もと月山(旧称勝日山)に祀られてあったが保元年中平氏の将悪七兵景清出雲に来りこの月山に城郭を築かんと欲し神廟と居を同くする事を恐れて遷し奉らんと闇夜虚空に白羽の箭を放って霊地を定め今の地に遷して社殿の造営を行なった、かの箭の落ちた所は景清矢中松(やたてのまつ)とて現に当社境内の旧跡として一と株の松樹に碑を建てて識している。かくて爾来富田城の鎮守として歴代城主の氏神としてその尊崇を受け、殊に尼子氏の如きは社領百貫の地を寄せ、神主竹矢氏に対しては他国より富田城下に入り来れる神子の司を命じたこともあった。
また毛利氏は尼子氏の定めた社領を安堵した上に神主竹矢氏の戦功を賞して種々待遇し、天正3年8月毛利元秋は遥に用材を石州に求めて造営を行い、次いで慶長4年吉川廣家またこれを修造し、且つ神田百石を寄せて神主、神宮寺以下の奉仕を定めた。併し毎年8月15日放生会に執行した有名な神幸式の神輿が永祿8年戦捷の余勢に乘じた毛利軍のために渡御の途中に奪はれ仁多郡横田八幡宮の社頭に運ばれてより、200年を経て、竹矢信之再びこれを迎帰りて其儀を再興したままでは、久しく打ち絶えていた程で、社頭も此後吉川氏出雲を退去して堀尾氏來るや同氏も元和3年上葺造営を行なったが、社領は単に神主領として三十石の地を寄進するに止つた。尤も其後検地を行った所、事実は三十三石九斗あつたけれど其侭に差置かれて京極氏の先例となり松平氏に至っては広瀬村に於て三十四石の社領となり、爾後貞享三年広瀬藩が設置された後も依然として同様の寄進を受けて来たのであつた。
而して造営に於ても同じく萬治元年の造管以來惣て藩費によつていたが、殊に安永2年8月には藩主松平近輝当社を以つてその祈願所と定むるに及び従来当社を大氏神としていた富田荘の山方里方十三ヶ村の社家も、是より祭礼毎に残無く参集して当社神主と共に藩主の武運長久、領内の静謐を祈願せしめらるる事となって、当社の位置は愈々確定されてきた、何者、元来当社の「神宮司」竹矢氏は天日鷲命の後田辺布禰より39代相続し、旧藩時代には日御碕、須佐、美保等の諸社と共に所謂一社一例の社格を有して富田荘十三ケ村の社家を支配し、四家の社人を従えて杵築佐陀の支配外に独立し、広瀬藩内に於ては御目見社家(当社、野城、貴布禰の三社)の上席として特に優越せる待遇を受け歴代叙位叙爵の家格を有していたものである。従って寛政2年3月舞馬の災は隨神門を除き、社頭一切を灰燼に帰せしめた時にも、特に藩議を以て社殿を再興して輪奐の美を尽くすに決し、吉川梁左衞門奉行として工匠を大阪に求め、禁裡御大工頭中井藤三郎の督下に大阪十八番組大工棟梁森川六右衞門豊武、加賀の名匠玉右衞門及び彫刻師、鉄師等工事に従い大工のみにても4500人役を費さしめた。乃ち藩船二艘に載せて彼の地より回漕し、宝政7年4月遂に当時建築の粋を集めた殿宇は新たに成るに至った。これ現社殿であって其後文政6年、天保15年、明治12年、同42年の上葺きを経たものである。かくて維新後にあっては明治5年3月郷社に列せられて第七十四五両区を管し、同13年には逓減祿の下給あり、同40年9月には、神饌幣帛料供進社に指定され、昭和2年9月9日県社に昇列せらるることとなった、蓋し本県下に於いて八幡宮としては此れの社格に列せられたものの鏑矢である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



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