風土記の「意陀支社」に相当する。 愛宕神社を意多伎神社に比定する説あるが不詳。 |
由緒 阿羅波比神社略記 出雲国風土記・記載阿羅波比社にして、往古は国屋洗合山に鎮座ありしを永禄5年毛利元就、尼子氏を傾覆せんとして洗合山に本城を築く時現在の地に奉遷した。此の辺を荒隈と言うのは、大己貴命(大国主命)、少名彦命と力を合わせ心を一にして天下を経営(国造り)し、ついに出雲国に到り、興言して、天津葦原中津国は、もとより荒芒たりと宣り給える古事による。後に荒隈又は洗合と改めたもので、社を阿羅波比社と言う。中原というのも大神の宣り給える天津葦原と中津国の中と原の二字を反覆して中原という。又、少名彦命の神光海を照らして寄り来たり給えるにより、照牀社、照牀明神又中原明神と称い、後世天神三座を合わせ祀り五社明神とも称した。毛利元就は奉遷後も社領の寄進、安堵ありて堀尾氏、京極氏、松平氏、歴代藩主祈祷所として頻繁に参詣、代参があり、八幡宮とあわせ殊に崇敬篤く信仰せられた。其後明治、大正、昭和と修復を重ねて来たが前本殿の造営は文化11年(1814)で170年前の造営であった。大正15年県社に列した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |