意多伎神社
おたきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】意多伎神社 出雲国 意宇郡鎮座
   【延喜式神名帳】同社坐御訳神社 出雲国 意宇郡鎮座
          (合祀)御訳神社

   【現社名】意多伎神社
   【住所】島根県安来市飯生町679
       北緯35度23分40秒、東経133度13分22秒
   【祭神】大国魂神 (配祀)大田神 (合祀)日神 荒魂神
   【例祭】10月9日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「意陀支社」『出雲国風土記』
       明治5年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「飯生(いなり)大明神」と称していた
   【社殿】大社造鋼板葺
       幣殿・拝殿・神樂殿・随神門

   【境内社】愛宕神社・稲荷神社

風土記の「意陀支社」に相当する。
祭神の大田命は式にいう「同社坐御訳神社」の祭神、境内稲荷社の祭神倉稻魂命は風土記不在神祇官社の「食師社」の祭神であるという。
風土記にこの地は大国魂命が降臨されたところであるという。そのとき神は自ら鋤をとり、農耕を教え、医薬を授け、産業を拓いた。この大国魂命を祀つたのが当社であつて、社号「意多伎」は「於多倍(おたべ)」すなわち食物を食するの意であるという。また合殿神に食師社があるのも、そのとき大神に御膳をすすめた地であるが故だと伝えている。


由緒

安来市飯生(イナリ)町鎮座 意多伎神社由緒略記
(一)御祭神
本殿 大国魂命、大田命
若宮 倉稲魂命
(二)由緒
当社は西暦724年(奈良時代初期)に勘造された出雲風土記(713年)や延喜式(927年)等に記載されている社であり、創立は遠く神代にさかのぼり、飯生大明神として今日まで顕然として栄え、崇敬者は出雲、伯耆にまでいたり、数千を数え、無上の崇敬と信仰をよせてきた社である。
意多伎神社の祭神・大国魂命
神代の昔、大国主命は、国土を開かんと、この地においでになって、人々を導き、朝夕自ら鍬、鋤をとられて、農耕をすすめられたと伝えられている。この里はよほど地味が豊かで、大神のみ心に叶った美しい土地であったであろう。出雲風土記の飯梨郷(イイナシノサト)のくだりに「郡家の南東32里なり。大国魂命、天降りましし時、ここに於て御膳食し給いき。故飯成(イイナシ)と云う」神亀3年(西暦726年)に字を飯梨と改む。と見えている。大神は久しくこの地で農耕を教え医薬を授け、産業福祉の開発に力を尽し、人々の生活を安定して、平和な秩序ある社会を建設されたので、その功績の広大無辺であったところから、大国魂命と尊称して、この意多伎山に斉き祀ったのである。飯梨郷(飯梨及び利弘(トシヒロ)、実松(サネマツ)、矢田、古川、新宮、富田、田原などの村のこと)ともいう、飯生(イイナリ)(東かがみの文治六年四月十八日の条には、飯生(イイナシ)と見えている。(飯成、飯梨の語源は、飯生(イナリ)と考えられ、又、郡家とは、今の松江市大草町六所神社附近の国庁を云い、32里は17.105Kmで、丁度当地にあたる。)
御譯神社の祭神・大田命(相殿)
大田命とは猿田彦命の別命で、天孫降臨の際の誘導の神である。大田神と称え奉るは、福縁を授け、衣食を守り給う時の尊称である、御譯とは教譯の意、又伎神として往来の人を守り、塩筒の翁として製塩の方法を教え、海上を守り、或はさいの神として夫婦の縁を結び、又置玉の神として寿命も守り給うなど人生の必要な事柄の守護神である。大国魂命に従って当山に長く滞在され、大神の開拓事業の先立となってすべての教譯(オシエ)、接渉にあたり、円満に事を運んで大国魂命の大事業を翼賛せられた国津神である。最後には五十鈴川の川上に鎮座し給う。神幸式などで鼻高面をかむり、祓いするのは、この神をなぞらえたものである。
若宮稲荷にます倉稲魂命
元は本社に合殿として祀ってあったが明治四年の遷宮の際、別宮を建立して若宮と称し之に奉遷したもので、当社を食師(ミケシ)というのは、この地で大国魂命に食膳を調達せられた神故に、当社に限り、食師神社と称え奉っている。即ち衣食住の守護神であり、五穀の神として敬い奉っている。
(三)境内、山林、その他
この山を意多伎山(古語のオタベで、物を食べるの意)といい郷を飯成(イイナシ)村を飯生(イナリ)(古くはイイナシと呼んでいた)といい、又この社の周辺一体の田を稲積といっているのは、いずれもご祭神にちなんで付けられた地名で、大神が食事をなさったことを物語るものに外ならない。その他飯盛(イイモリ)、一鍬畑、釆盛(サイモリ)、牛の森、日仮屋山などの神跡地は、この附近に今でも多く残っている。
(四)祭礼
春・旧2月の初午祭と五穀祭(春の祭)
当日早朝境内の一隅を清め、いみ竹を立て、しめ縄を張りめぐらし、三つの釜を据え、諸事万端を整える。御供炊(カ)き奉仕者(以前は四名、現在は二名)は白装束に立ちえぼしをつけて祓いを受け、神火を奉じて炊き奉る。それより先に、三つの竹くだを釜に入れ、御神飯を炊く、終って本殿に献供、次に食師の社、続いて末社に献ずる、此のお祭りは、食師の倉稲魂神が、本殿の大国魂大神に御食をご調達になる古事にならって行われる当社に於て、最も大切な儀式であって、創立当時から今日に伝承される五穀古伝祭である。又最初に入れておいた三つのくだも一諸に奉進し、今年の稲作のご託宣を受けると共に、五穀豊穣、厄災消除、家内安全を祈請するお祭りであり、終日神楽、舞楽を奉納する。
秋・10月9日 大祭
前夜祭を執行し、数年前までは部落の若衆により、盛大な演芸会も大変にぎやかに催され、境内は観客でにぎわった。当日、神田所作の新米にて御神飯、祝餅を調達し、その他海川山野の種々のものを献供して、国家の隆昌、氏子崇敬者の繁栄を祈り、終日神楽、及び小学生女子四人による舞楽の奉納をする。神幸式もかっては執行していたが現在はない。以上は略記であるが、遠く神代創立の由緒深い社である故、旧藩時代の武将の崇敬も厚く、松平家より釣燈籠等の奉納があり、又出雲国造、千家、北島両家も、古よりご参詣になり、高張、奉幣等の奉納がなされている。前回の遷宮には、古例によって、両家より参拝され、奉納の儀を執り行った。(その他の例祭については略す)
当地開拓の祖神、大国魂命を産土の神として主神に、そして大業補翼の神大田命、又衣食住の神として、うがのみたまの命、これら三神が、ゆかりも深い意多伎の山に鎮座ましますことは、当然のことであり、又神話の実証としてもまことに尊い極みである。このようにして大神の神話や伝説がこの地に、ゆたかに語りつがれて行くことは、在住の人々の誇りでもあり、この里々に今も尚、神々の生活の息吹が、身近に感じられるゆえんである。宮司神白明尚記

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



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