『出雲国風土記』意宇郡条の在神祇官社の「野城社」、『延喜式神名帳』出雲国意宇郡の「野城神社」に比定されるが、同じく『延喜式神名帳』出雲国能義郡の「天穂日命神社」に比定する説もある。 風土記の「野城社」に相当する。 風土記では、熊野大神・所造天下大神・佐太大神とともに「大神」の称をもつて呼ばれている。 古来主祭神が出雲国造の祖たる天穂日命とされてきたため、国造家の代替りには、千家・北島の両家とも新国造が参拝奉幣する慣いとなっている。 「同社坐大穴持神社」は風土記の「夜麻佐社」の次に記す「野城社」に相当するといわれている。 「同社坐大穴持御子神社」は風土記にある「野代社」二社のうちの一に相当するといわれている。 両社とも古来合祀となっている。 |
能義神社 能義神社の由緒 当社のご祭神は天照大神の第二子、天穂日命であります。天穂日命は國土奉還の使者として高天原より大國主大神のもとにおいでになり、大きなご功績を挙げられた、大神のご祭主としてお仕えされた神様で、出雲國造家の御祖神であります。当社の例祭10月19日には、出雲國造83代の御孫千家宮が親しく参拝され、御祖神の御神威を奉戴されています。当神社の創建は遠く神代にさかのぼり733年に撰上された『出雲風土記』には「野城社」とあり、967年に制定された『延喜式』の神名帳には「野城神社」と記載される古社であります。出雲の國人達は四大大神、つまり出雲大神、熊野大神、佐太大神とならんで能義大神とその御神名を称え、尊崇してまいりました。そして朝廷の御尊崇も殊に篤く、「六國史」には数度にわたって神階を授けられた記事を見ることが出来ます。又、社殿も古雅広壮であったと伝えられていますが、永録6年(1569)天災で焼失、慶長18年(1613)堀尾氏の御造営以来十一回の御遷宮を経て今日に及ぶ大社造りの古社であります。 社頭掲示板 |
能義神社 この神社の創立は古代にさかのぼる。出雲国風土記(733年・奈良時代)には意宇郡野城社と記され、延喜式(927年・平安時代)には野城神社と記されていることからも推測できる。そして、中世からは能義宮とたたえられ、安来市や能義郡はもとより、近郷に住む多くの人々からの信仰が厚く、出雲の国の人々は今でも杵築の大神をはじめ、熊野の大神・佐太の大神・能義の大神を出雲の四大大神と尊称している。 御祭神である天穂日命は天照大神の第二子で、神性にたけ、神代の神傑とたたえられた神である。命は天照大神の命令により、国譲りの使者としてこの地においでになつた。しかし既に、大国主命がこの地方で農耕を教えたり、医薬を授けるなど、人々の生活を安定させ産業福祉や国土開発に尽力されていた。その姿にすつかり魅せられた天穂火命は、大国主命を助けて国土の奉献と開拓に偉大な功績を上げられた。そして、大国主命がお隠れになった後も、自ら祭主としてとどまられ、いよいよ無窮の国礎を固められたのである。 従って、朝廷のご尊崇も厚く、文徳実録(879年・平安時代)や三代実録(901年・平安時代)によれば、幾度も御神階の贈進を受けている。また、戦国武将等の崇敬も深く、多くの社領寄進の記録も残っている。 しかし、不幸なことに天災に遭い、右崖上の旧社地にあつた社殿が焼失してしまった。現在の社殿は慶長18年(1612年)堀尾氏によってこの位置に再建され、以来15回の造営を経て今日に至っている。 また、天穂日命は出雲国造干家・北島両家のご祖神であって、代々ご社参の古記があり、数々のご寄進の品や古文書が残つている。毎年10月19日秋の大祭には、今もなお必ず出雲大社の干家宮司が親しく参拝される。 旧社格 県社(明治6年10月23日列格) 社頭掲示板 |