風土記の「夜麻佐社」に相当する。 『出雲国風土記』意宇郡神社条には熊野大社に続いて記されている意宇郡第二の神社であった。 風土記の時代にはこの夜麻佐地区に二社あつたものが、式の時代になると一方が他方に合祀され一社になった。近世になると、この山狭地区が上山佐と下山佐とに分れ、上山佐には「二所大明神」、下山佐には「熊野神社」(通称熊野権現)ができた。この双方が式内社を争った。一方、式内山狭神社は上山佐の二所大明神で、同社坐久志美気濃神社はその後また分れて下山佐の熊野神社となつたという説もある。明治以後上山佐の山狭神社は式にいう山狭神社の、下山佐の山狭神社は同社坐久志美気濃神社の後身という形となった。 |
山狭神社 「當社明細帳」に次のごとく見えてゐる。 「延喜式云。山狹神社に座す久志美氣濃神社は、出雲風 土記云山狹社と有り。右風土記の二社奉られたる一社は、 式の所謂同社に座す久志美氣濃神社に當る。又風土記の松 藩神戸郡吏岸崎時照の抄を見るに、野城の驛家より三、四 十町上り、祖父姥谷と云有。又姥谷より三、四十町上り 伊弉諾尊・伊弉册尊を山佐村に祭ると有るは是なり。然る 處、神代の昔素戔嗚尊天下御巡り座し時、出雲國仁多郡島 上にて八俣遠呂智を平げ給ふより意宇郡須我山に至り給 ふ。此の處に假の御舎造り座給ひ、御身心を安き給ふ神跡 なり。是より西に當る天來山と言ふ有。此れは能義郡山佐 村と意宇郡熊野村との間にて、此の大神の通はせ給ふ處な きや。今猶仁多郡より能義郡山佐村を經由して熊野村に至 る經路として、山路より山佐村と熊野村とを連絡する間道 なり。今は龜山・鶴山と云ふ。御通路山にいつき奉る山狹 社と申すは熊野大神なり。素戔嗚尊の亦の名を熊野加牟呂 岐久志美氣濃尊なり。依つて今にも龜山・鶴山併せ兩山 あり。龜山に祭る山狹社、同久志美氣濃社なり云々。久安 年中北面の武士民部少輔當國へ下向の時、鵜を使ふ人を連 れ靈驗あらたかなる當社に参詣せしことあり。今にも鵜飼 田と云ふ神田社縁もあり。安永四年乙未七月領主松平淡路 守御社詣、其れより以来代々御社参。年頭禮母年御玉串献 上の事ありす爲、富田藩士の懇望により正徳四年十月同社 に座す久志美氣濃社を分祀し、山狹神社境内社として、更 に社殿を造営して久志美氣濃神社となす。爾來廣瀬藩家老 職鈴木家が同神社の本願として其の崇敬頗る厚かりき」 式内社調査報告 |