風土記の「夜麻佐社」に相当する。 風土記の時代にはこの夜麻佐地区に二社あつたものが、式の時代になると一方が他方に合祀され一社になった。近世になると、この山狭地区が上山佐と下山佐とに分れ、上山佐には「二所大明神」、下山佐には「熊野神社」(通称熊野権現)ができるた。この双方が式内社を争った。一方、式内山狭神社は上山佐の二所大明神で、同社坐久志美気濃神社はその後また分れて下山佐の熊野神社となつたという説もある。明治以後上山佐の山狭神社は式にいう山狭神社の、下山佐の山狭神社は同社坐久志美気濃神社の後身という形となった。 古くは天狗山の元宮成(げんぐうなり)にあつたが、のち山麓の湯谷・宮ケ谷に遷し、そこで水難に遇つたため里近い宮ケ市に遷し、再度水難に遇つて門畑地内の中河原に遷し、さらに水難に遇うことしばしばであつたため、ついに現在の高地に遷したと伝えている。 |
山狭神社 山狭神社の起源は、八雲村境の熊野大社の鎮座する峰の裏側、元宮成に鎮座されていたとされています。その後山麓の、湯谷の宮ヶ谷に一時移り、同所には社地、神主屋敷、神主畑の地名が残っています。次に、宮ヶ市に遷座し、また水害に遭い、門畑地内の中河原へ移動し、延喜〜大永年間(901〜1528)までこの地でしたが、ここでも度々の水害に見舞われ、現在の高地に奉斉して、今日に及んでいます。 神社の前、南方丘陵で堂床という地名の残っている所に、かつて山狭社の神宮格であった楽喜院という寺院があったと伝えられています。 現在、この寺院の住職等によって写経されたと伝えられる「大般若経」600巻を数える、古文書が、社宝として秘蔵されています。 上山佐コミュニティ再生会議 |