風土記の「宇流布社」に相当する。 北側に、室(むろ)山がある。山容きわめて秀麗であるが、宇留布神社はもとこの中腹にあつたという。ここには大和三輪山と同種の蛇体伝説が語り伝えられている。 容姿端正な笛をよくするヒメのところへ毎夜男が通つて来て、愛し合つているうちにヒメが姓娠した。父母が怪しんでその男の素性を尋ねるが、ヒメにはわからないので、男の着物に麻糸を通した針を刺しておくように教える。翌日の朝、その糸がかぎ穴を通つて外に出ており、糸の先をたずねて行くと、折原の地に至り、はじめて蛇男であることを知つた。 また部落を流れる平原川では鰻を、神の使いであるから捕つてはならないと伝えている。 宇留布神社の旧社地は宇留山(室山)の中腹にあったとされ、山全体が御神体(神域)とされていた。 永禄年間、尼子・毛利合戦の折、当社の神主三島源兵衛が尼子方に加勢したため、毛利軍によつて室山の社殿が焼かれ、社領も没収された。以後は久しく鍋倉山に小祠を設けて紀つていたが、元禄16年(1703)もとの社地に社殿を建立した。 明治39年平原村内に鎮座した、三島大明神・国原神社・金多大明神の三社を、式内宇留布神社と認定された三島大明神を中心として、ただし社地はそれまでの国原神社の社地において合祀して宇留布神社とした。 |