売布神社
めふじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】売布神社 出雲国 意宇郡鎮座

   【現社名】売布神社
   【住所】島根県松江市和多見町81
       北緯35度27分59秒、東経133度3分32秒
   【祭神】速秋津比売神 (配祀)五十猛命 大屋津姫命 抓津姫命
   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天平5年(733)2月30日「由宇社」『出雲国風土記』
       永享11年(1439)3月3日佐々木持清神田壱段寄進
       明応4年(1495)正月8日社領寄進状
       元亀元年(1570)毛利輝元侵攻焼失
       文禄3年(1594)吉川広家社殿造立
       慶長元年(1596)2月8日社領寄進状
       寛永15年(1638)12月6日松平直政社領寄進
       元禄2年(1689)9月造営
       元禄5年(1692)11月5日社領寄進状
       元文2年(1737)8月21日造営
       明治似降売布神社と改称
       明治4年7月4日郷社
       明治28年10月29日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元の鎮座地は意宇郡の海辺
        天正年間現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「白潟大明神」「橋姫大明神」と称していた
   【社殿】本殿大社造
       幣殿・拝殿・随神門・手水舎・社務所・神器庫

   【境内社】和田津見神社・金刀比羅神社・船霊神社・恵美須神社・導祖神社
       白潟地主荒神・常光神社・大松荒神


『出雲国風土記』に「賣布社」とある。
当社の元の鎮座地は意宇郡の海辺であり(意宇の入海(宍道湖)西岸に鎮座していたといわれる)宍道湖が形成される頃袖師ヶ浦へ、そして潟地が広がって今の白潟ができるころ海水の流入口となった現在地へ天正年間に遷座された。
祭神速秋津比売神(=橋姫)は対岸に架る白潟橋(後の大橋)の守神であつた。この大橋は『雲陽大数録』に「長七十間幅二間二尺六寸」とあり、殊に慶長12年(1607)改架の時は、入柱を立てたという。


由緒

賣布神社略記
当社は出雲風土記に賣布の社、延喜式神名帳に賣布神社と列記され、社記及び世人には白潟大明神、或は橋姫大明神とも称されてきた社であります。主祭神=速秋津比売神の御鎮座は、神代においてその御孫神の櫛八玉神が御祖神として、又海河港湾の守護神としてお祭り祈願なされたのに始まっています。境内摂社=和田津見社(海の若宮、漁宮ともいう)には、古来当社の古伝祭の神事等、この神の御事蹟に縁があります。又、本殿合殿の三神は第20代安康天皇御宇2年秋8月朔日勧請と旧社記にあります。当社は古来意宇郡松江村の氏神様で白潟大明神と申すのは往古この一帯は海であったが、次第には白砂が積って潟地形が出来たという意によってか、地名を白潟と名づけ、いつの頃よりか地名を冠して白潟大明神とも称え奉るに至り、当社の御神徳の発展と共にこの地いよいよ拓けたのであります。又、松江は湖川をはさんで南北にわかれ、古くは白潟と末次の往来は舟を用い、不便であったのを御神託により橋が架けられた為、人々はこれを喜び、橋の守護神としても尊崇し橋姫大明神とも称したのであります。古来、国主より累代特別の御崇敬がありましたので、神領、宝物等の御寄附が少なくありません。文禄年間には豊臣秀吉の立願により社殿を改造されたこともあります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



売布神社

延喜式内 賣布神社御由緒
一、 御祭神
主祭神 速秋津比賣神(水門ノ神、祓門ノ神)
相殿神 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命(樹種ノ神)
摂社神 櫛八玉神(漁労ノ神、調理ノ神)
一、 御神徳並に御鎮座の事
 当社は遠く神代において摂社の御祭神である櫛八玉神が潮路の八百会に座す速秋津比賣神を万物の生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、のちに樹種の神とされる相殿の三神が合わせ祀られたと伝えられています。
 このことは、海の潮のはたらきと地上の樹木のはたらきが相俟って海河山野の幸がもたらされ、人々も生かされていることが示されているのであります。そして祓え清め生命のよみがえりの神として信仰され、潮から成る水と塩が清めの霊力をもつとされてきたのであります。
一、 社号と鎮座地について
 社号の「めふ」とは海藻や草木の豊かに生い茂る所をさしており、当社の元の鎮座地は意宇郡の海辺でありしんじ湖が形成される頃袖師ヶ浦へ、そして潟地が広がって今の白潟ができるころ海水の流入口となった現在地へ遷座されたのが天正年間(十六世紀後半)のことであると伝えられています。

社頭掲示板



売布神社

当社は、「出雲国風土記」に「賣布社(めふのやしろ)」、「延喜式」には「賣布神社(めふのかみやしろ)」と記された古社であり、社名の『めふ』とは、海藻や草木の豊かに生えることを意味している。 元の鎮座地は、古代名の「意宇の入海(おうのいりうみ)」(今の宍道湖)の西部湖岸と考えられ、潮の流れや地形の変動に伴い遷座され、岩崎鼻(袖師ガ浦)に鎮座した時代もあり、潟地が広がって白潟(しらかた)の地が形成されて現在地に遷座されたのが十三世紀頃と考えられ、「白潟大明神」とか、十五世紀には「橋姫(はしひめ)大明神」とも称され、水郷松江の産土神(うぶすながみ)として鎮座した。 また、中世には港町「白潟」の宮座の権利として神田や漁業権を保有してきた歴史があり、祭儀では摂社の「櫛八玉神」の御事蹟と関連して、古代神話の国譲りの段に因む神事が継承されてきた。

出雲國神仏霊場



売布神社

風土記の社 延喜式内社 賣布神社御由緒
一、御祭神
主祭神 速秋津比賣神(水戸ノ神、祓戸ノ神)
相殿神 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命(樹種ノ神)
摂社神 櫛八玉神(漁労、調理、製陶ノ神)
二、御神徳とその意義
 当社は遠く神代において摂社の御祭神である櫛八玉神が潮の流れの中にあるとされる速秋津比賣神を生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、後に樹種の神とされる相殿の三神が合わせ祀られたと伝えられています。
 このことは、海の潮の働きと地上の樹木の働きがあいまって海河山野の幸がもたらされ、人々も生かされていることが示されているのです。
 神ながらの道の原点は、大自然の営みに畏敬の念をはらい、自己の生き方を律して、諸々の禍いや過ち、そして気枯れ(穢れ)などあればこれを見直し、人本来の生き方や生命力を甦らせることにあり、それが「祓え・清め」の真の意義でもあります。
 そのための活力(気)は、「潮の気(水気や塩気)そして、樹木の気に宿る神々によってもたらされる」と、信仰されてきたのです。
三、社名と神社の歴史について
 当社は、「出雲国風土記」に「賣布社」、「延喜式」には「賣布神社」と記された古社であり、社名の『めふ』とは、海藻や草木の豊かに生えることを意味しています。当社の元の鎮座地は、古代名の意宇の入海(今の宍道湖)の西部湖岸と考えられ、潮の流れや地形の変動に伴い遷座され、岩崎鼻(袖師ガ浦)に鎮座した時代もあり、潟地が広がって白潟の地が形成されて現在地に遷座されたのが十三世紀頃と考えられ、「白潟大明神」とか、十五世紀には「橋姫大明神」とも称され、水郷「松江」の産土神として鎮座しました。
 また、中世には港町「白潟」の宮座の権利として神田や漁業権を保有してきた歴史があり、祭儀では摂社の「櫛八玉神」の御事蹟と関連して、古代神話の国譲りの段に因む神事が継承されてきました。

由緒書



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